松尾大社の重森三玲の庭

松尾大社

重森三玲の名前を最初に知ったのは、30歳過ぎのことでした。

まだ京都の神社仏閣巡りをはじめたころのことで、東福寺に参拝に行った折り、方丈の、それまでに見たどの庭とも似ていない、斬新でモダンな庭と出会ったのでした。

調べてみると、重森三玲という、昭和の作庭家が存在し、彼がつくったのだということがわかりました。
重森三玲は、作庭でだけでなく、東京美術学校で日本画を学び、茶の湯に浸り、生け花の革新を唱えて「新興いけばな宣言」にも名を連ねた、稀代の芸術家なのだということを知りました。イサム・ノグチは、彼から多大な影響を受けています。

禅寺の方丈といえば枯山水の庭がほとんどセットになっていますが、東福寺の方丈は四方すべてに庭が配されている、日本で唯一の方丈です。
東庭の北斗七星の庭、西庭の大市松の庭、南庭の蓬萊の庭、北庭の市松の庭。どれもこれもが斬新で、既成のスタイルにまったくとらわれていない自由さに溢れています。

この庭こそが彼の作庭デビュー作なのですが、
彼がまだ庭園の研究家として活動していたころ、1938年(昭和13年)、室戸台風が近畿地方に多大な被害をもたらした折り、東福寺の方丈庭園もまた、激しく傷んだのでした。で、この台風によって庭の修復には困難が予想され、今後の研究が発展しないことを痛感した重森三玲が、作庭に乗り出したわけです。
また、旧態依然とした伝統だけが重んじられ、アートの神髄である自由な発想がまったく無視されていた当時の庭園界にあって、そして昭和期にいたっては将来に誇れる庭が造られていない現実を見るにつけ、彼の芸術家魂に火がついたという側面もありました。

1200年の都にあって、昭和に入ってから造られたお寺さんの庭って、それだけでドキドキしませんか?

といって、彼が、伝統を軽んじているわけでは、ないんですね。
東福寺方丈を例にとると、東庭は北斗七星がモチーフになっていますが、そもそも七という数字は吉兆を示す数字だし、柱石の余材を利用することで、余すことなく使うという、禅の精神を踏襲した庭となっています。
南庭は神仙境を表現しているんですが、蓬萊・方丈・瀛洲、壺梁の四島に見立てた巨石、砂紋による荒波、四方に五山を築山と、モチーフ自体はありふれているうえに、鎌倉以降の質実剛健さを基調にすらしています。それでいて、自由闊達というか、大胆無敵な作庭をします。実際、目の当たりにしたら、仰天しますね。
伝統とモダンのミックスと言ってしまえばそれまでですが、デザイン能力の高さと、肝っ玉の太さを感じずにはいられません。大胆でいて、洗練もされてます。

いつぞや、年のほんのいち時期だけ公開される、東福寺塔頭の龍吟庵を参拝したときのこと。
そこの方丈庭園もまた、重森三玲作庭の庭であると知り、実際に目の当たりにし、なんという庭か!と、仰天したものです。
もうね、巨大な浮世絵を見るような心地でした。石と砂紋だけで、黒雲を切り裂いて龍が躍動しています。

おなじく通常は非公開の、東福寺塔頭、霊雲院南側にあるの「九山八海の庭」。
九山八海ですから、これは宇宙全体がテーマです。禅宗においては、宇宙全体といえば曼荼羅という優れた表現があるけれども、重森三玲の表現する宇宙は、大胆かつ、不遜です。
同心円の紋様を白砂に幾重にも描き、中心に遺愛石を据えて、須見山とする。
大胆に抽象化され、かつ、豪快で、不遜です。

優れた芸術はどれもそうだけれども、彼の庭をまえにして、のんびりほっこり、という気分を求めるのは、無理というものです。
ワクワクし、ドキドキします。
冷や汗や脂汗すら、出ます。鑑賞したり味わったりというよりも、対峙させられている気分です。

先日、松尾大社へ詣ったのでした。
そこにも、重森三玲の作庭した庭があるのです。最晩年に作庭した、遺作となった庭です。
1974年(昭和49年)着工、1975年(昭和50年)完成ですから、僕が生まれてからこっちの時代に、京都を代表する神社に庭が造られたこと自体が驚きじゃないですか。歴史ではなく、現代です。

禅寺ではないので、枯山水ではありません。お寺さんではなく神社なので、浄土式ということもないのだけれども、松尾大社がもっとも栄えたといわれる平安期を表現しているのだとか。
曲水の庭は、文字通り、曲がりくねった川が庭を貫いています。背後を緑で築山し、手前は敷石で平地を。山から平地を縫うように、縦横無尽に川が曲がりくねっています。そして、川面に突き出た無数の青石。この青石はすべて、杯です。川面を無数の杯が滑るように流れてくる……。なんとも風流で優雅な平安期の風景が、この庭には再現されているのです。そのように、風流ではあるにもかかわらず、洗練を拒むような豪快さが、同時に、この庭は存在しています。風流と豪快さが同居するそのさまに、呆気にとられます。

さて、重森三玲の庭と出会ったのとときをおなじくして、僕は枯山水にものめり込んでいきました。
なぜ、あれほどまでに具象を削ぎ落とし、狂気の世界とでも呼びたくなるような表現が出現したのか、ということです。

調べていくうちに、
枯山水の呼称は、もともとは仮山水であって、それも鉢山に対抗して名づけられたものだったろう、ということがわかりました。鉢山とは、盆山水のようなもので、鉢に盛ったミニチュアの山水のことです。

『作庭記』という本があります。
平安時代に書かれた日本最古の庭園書であり、寝殿造の庭園に関することが書かれていて、意匠と施工法が網羅されています。いますが、そのくせに図がまったくなく、すべてテキストだけで構成されているという、なかなかの奇書です。
平安期に書かれた本なので、枯山水出現以前のものです。まだ、石組みは存在しません。存在しませんが、本来の庭園作法ではけっしてそこに庭を造ってはならないとされた場所に、石組みが出現した、と、かろうじて記されています。

この、一種、禁断の地に現れた石組みこそが、仮山水です。

真名のオルタナティブとしての女文字である仮名がひっそりと出現したように、真正の山水の矮小化を旨とするのがそれまでの庭園のメイン・ストリームであったなか、仮の山水が試みられ、矮小化の対抗手段としての抽象化が、ひっそりと出現しました。

なぜ、そのようなものが出現したのか。

ひとつの例として、細川勝元が妙心義天を竜安寺の草創に招いたときの高足だった鉄船禅師の試みを、引きます。
般若道人とも称した鉄船は、1477年(文明9年)の『仮山水譜并序』に、意訳すれば、こんなことを書いています。

そもそも庭園などというものは、資金があればどんなに珍しい樹木も持ってこられるし、各地の立派な巨石だって集められるものであって、そんなふうにして大庭園をつくったからといって、それで風流の心が満足できるとはかぎらない。
だから、我々のような貧しい者は、資金がないからといって庭園を造れないとあきらめることはない。無論、大樹も巨石も集められないから、このたびは工夫して、一石一木をよく選び、これらで小さな石を組み、ここに仮の山水ともいうべき小さな庭を完成させた。
こうして完成させてみると、このような小庭においても五岳を感じることはできるし、大海を遠望する気分になれるものである。それゆえ、得心のいく庭をつくるには、必ずしも富者豪族ではなくとも、自分のような貧しい者がそれをつくる可能性はじゅうぶんにあったのである…点。

この鉄船の言葉は、村田珠光から武野紹鴎に及んだ侘茶の草庵の出現の経緯と、ピッタリと重なっています。
仮山水が貧者の一徹によって生まれた可能性を示すとともに、禅の精神を考えれば、その仮山水がやがて寺院塔頭の枯山水として、大きく引用されていっただろうことをさえ、雄弁に告示しているではないですか。

無論、これだけで枯山水が確立したわけではありません。

ここにはもうひとつ、残山剰水というモノの考えかたが、庭園に及びます。
白砂を用いて、残余を表現する。これはすなわち余白と空白の導入ですが、逆にいうなら、引き算の実験です。
なにかを削ぎ、残余を出現させ、余白と空白に積極的な意味を持たせていく。
仮山水が窮余の一策としての抽象化だとすれば、そこに積極的な意味を持たせることによって、仮山水は大きく飛躍し、枯山水となります。

このあたり、日本の山水感覚のみならぬ造形感覚の全般におよぶ、ヴァーチャル・リアリティの感覚の肝があるように、思うんですよ。

思っていたら、つい最近、思い知らされたのですが、そんなことは重森三玲が、とっくのむかしに気づいていたのでした。
重森三玲は、日本人に「空」が飛来した、と、書いています。
まさに、「空」であって、また「白」であって、また「余」というものであって、「負」というもの、だと。

京都は吉田に、重森三玲邸書院があり、公開されています。
吉田神社の社家である鈴鹿家所有の江戸期本宅を譲り受け、新たに自作したふたつの茶席、書院前庭園や坪庭がつくられている、新旧融合の興味深い場所です。さらには、社家建築の趣を伝えるほぼ唯一の遺構でもあります。

こちらも久しぶりに、近いうちに行きます。
やはり、重森三玲はおもしろい。

松尾大社

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Flickrに画像あります。
京都:松尾大社 曲宴の庭&蓬莱の庭(2014.5.3)

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京都市西京区嵐山宮町3
http://www.matsunoo.or.jp/index-1/index.html

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