かつて曽根崎新地を島にしていた曽根崎川(蜆川)と河村瑞賢

曽根崎川、別名、蜆川についてです。
堂島川の分流で、現在の北新地を流れてました。
今はもうなくなっていて、JR東西線の北新地駅を出たところすぐに、跡碑があります。

蜆川

蜆川

俗に、蜆川と呼ばれているけれども、シジミが採れたとか、毛馬閘門が造られたせいで水が淀んでジメジメした川になったことからジメジメが訛って、とか、改修が繰り返されて川幅が縮んだことからチヂミ川が訛って、とか、諸説ありまして、今となってはなにがほんまやらわかりません。

地図を見るとよくわかるけれども、中之島の北側を流れる堂島川に中洲があって、その中洲に、曽根崎新地やら堂島新地やらがあったことになります。で、その中洲のさらに北側を曽根崎川が流れていたので、新地は、陸とは完全に切り離されていたんですね。

見ると、現在の大江橋から水晶橋間で分流して、現在の北新地の新地本通と堂島上通を両岸に西流、ほたるまちや関西電力病院の北を通り、堂島大橋・船津橋間で再び堂島川と合流していたみたいです。

蜆川
蜆川

この地形をつくったのは、17世紀、河村瑞軒によります。
17世紀に河村瑞賢が河川改修し、堂島川の左岸に堂島新地、右岸に曽根崎新地が拓かれ、米会所や歓楽街として発展します。歓楽街を陸地と切り離すのは、今、橋下市長あたりが提唱しているカジノ特区構想なんかとおなじ発想なんでしょうな。あれも、舞洲が候補地のひとつなんでしょ。
税収を増やすためにもゼニがたくさん落ちる場所はほしい、でもピンク産業やバクチはきっちりと行政でコントロールしたいんで、囲われた場所を用意します、と。そういうことやと思います。

橋もたくさん架かっていたようです。
難波小橋、堂島小橋、蜆橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋。
今は曽根崎川自体がなくなってるんで、当然、橋はないけれども、探してみれば、それぞれの場所に跡碑があるかもしれませんね。また機会があれば、跡碑巡りでもしてみたいもんですな。

さて17世紀、江戸時代初期ですが、大川(当時の淀川ですな。中之島のところで分流して、堂島川と土佐堀川になります)は、河口付近の港が、上流から流入する土砂によって、ちょくちょく港が閉塞していたらしいです。当時の物流は海運がメインなので、これは由々しき問題。
で、問題解決のためには、上流の治山と下流の治水を一体的に整備しなければならんという認識にいたり、河村瑞軒に白羽の矢が立ちます。

河村瑞軒といえば、東廻り航路と西廻り航路を開拓した人です。

秋田の酒田から日本海沿岸を北上し、津軽海峡をグルッとまわって太平洋に抜け、三陸沖を伝って江戸に入る航路が東廻り航路。
おなじく秋田の酒田から逆に日本海沿岸を西航し、関門海峡を抜けて瀬戸内海を東航し、紀州沖、遠州灘を経て江戸へ入る航路が西廻り航路。この航路を走る船は、北前船ですな。
このふたつの航路が開拓されたおかげで、物流に要する時間と費用を大幅に短縮することに成功させたのが河村瑞軒ですわ。さらに、寄港地の入港税免除や水先案内船の設置など、海運にかかる諸々の整備もおこなったというので、まさにロジスティックの神のような人ではないかと。

その河村瑞軒が、曽根崎川を拓きます。
下流の河口付近の土砂堆積問題だけじゃなくて、しばしば氾濫した大河の治水も、これで少しは安定したみたいですな。まあ、本格的には、新淀川を改削するまで待たねばならんのですが、なにはともあれ、これでひと息つくことはできたようです。このプロジェクトの一環で、安治川も開拓してはります。
ロジスティックだけじゃなくて、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などのプロジェクトを指揮していて、国交省と運輸行政とエネルギー行政と、とにかく横断したジャンルのスケールがでかくて、グランド・デザインが描けた希有な人材ではないかと、その業績をちょっと振り返ってみただけでも思います。

伊勢の貧しい農家の出ですが、江戸に出て幕府の土木工事の人夫頭になったのをキッカケに、土木・建築の仕事を請け負うようになって大儲け。一躍セレブ入りします。最後は旗本に格上げされてますから、当時としては、考えうるかぎりの大出世ですな。

その河村瑞軒がつくった曽根崎川は、1909年(明治42年)、「キタの大火」の際に、復興の過程で瓦礫の廃棄場所となり、埋め立てられます。

キタの大火前後に新淀川(現在の淀川)の開削工事が進められていたので、治水と加工の土砂堆積解消のためにつくられた曽根崎川の役割も終わった、ということですね。

ご苦労!

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