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とうとう、ここへ遁走してしまった。
大正13年、17歳の中原中也は、中学生の身でありながら、三歳年上の女優・長谷川泰子と同棲していた。河原町今出川の交差点の西南、上京区中筋通石薬師角 (当時) にその家はあった。そして、そこから徒歩で10分もかからない、下鴨宮崎町 (糺の森の西) に、詩人・富永太郎が住んでいた。富永もまた、東京から上海と彷徨の途上にあった。泰子も同じ身の上だった。中也17歳、富永23歳、泰子20歳の頃のことである。
中原中也 中原中也 (nakahara chuya) 1907-1937
詩人。山口県生まれ。中学時代を京都で過ごし、上京。ランボーやヴェルレーヌなどの影響を受け、象徴派風の詩を形成する。処女詩集『山羊の歌』を自費出版。その後も精力的に執筆を続けるが、長男の死により精神の均衡を失い、心神ともに衰弱。鎌倉養生院にて没す。享年 30歳。小林秀雄に託されていた詩稿が、死後、『在りし日の歌』として刊行された。

プリズムは実に稲生の君にふさはしき名なり。
今日物理の時プリズムにて光の屈折の実験あり、プリズムを透す日光の美しさ、紫、黄、赤、実に鮮なりき、
無色にして色彩ある日光を神の様に感じき。プリズムは実に稲生の君にふさはしき名なり。午前中にして帰る、
午後脚本を作らんとして成らずして止む 〜中略〜 夜月光の美しさに心浮き夢の如く青き夜をはるかに
神楽岡のほとりに出ず、稲のかられて積まれたる田ほのかに赤く遠く笛の音きこえぬ。かの君の館の前にて
一友に『村山』と呼ばれ胸わななきぬ、かの君の笑み給ふ声、館の中に燈と共に溢れたりき。
村山槐多 村山槐多 (murayama kaita) 1896-1919
詩人・画家。神奈川県生まれ。京都府立二中卒。教員であった父の赴任先・京都で、幼年時代から中学卒業までを過ごす。その後、画家を志して上京。中学時代から、ポー、ランボーなどに親しみ、詩作をはじめ、短歌、小説、戯曲など多岐にわたる創作活動を展開した。22歳で夭折。死後、これらの遺作を収めた『槐多の歌える』『槐多の歌える其後』が刊行された。

学生時代の、旧友との再会。
陽の光のような、淡い気持ち。

胸が躍るような軽快さが滲み出ている。無邪気で、開けっぴろげの楽しさがある。宿命の放浪者にも、こんな旅があったのだ。生活のための旅ではなく、女学校時代の旧友と再会した、京都旅行のいち場面。
二月の寒い風に吹かれて京都へ発った。出迎えてくれたお夏さんと、8年ぶりの再会を懐かしむ。二人は黙って冷たい手を握りあう。女学生に戻ったような、晴れやかな気分。賑やかな新京極を歩いた。現在も全国からやって来た修学旅行生たちが行き交う繁華街である。うどん屋で、お互いに懐を気にしながらも、帯を緩めてはきつねうどんをおかわりした。円山公園では、恋人のように寄り添って歩いた。そして、お夏さんの家の二階で、しみじみと大きな欠伸をした。
林芙美子が訪れた京都は、いつも清々しさにみちている。寺や人家に密集する瓦に時雨が降ったかと思えば、茶室の外に降る雪がやんだかと思えば、すぐに薄日が射す。雨や雪が上がったあとの優しい陽の光は、鬱々とした気持ちを晴れ晴れとさせた。歓びと生命観に満ちている。それは、どんな境遇にあってもすぐに元気を取り戻す放浪記の主人公の姿に自然と重なっていく。心はいつも晴れやか。京都の街は、雨が降ってもすぐにまた陽があたる。
林芙美子 林芙美子 (hayashi fumiko) 1907-1937
小説家。山口県下関市生まれ。尾道高女卒業後、愛人を追って上京するが破綻。傷心を慰めるためにつけはじめた日記が『放浪記』の原型となった。5年間の日記が元になった同書は、1930年に出版され、ベストセラーとなる。以後、『風琴と魚の町』『清貧の書』など次々と作品を発表し、女流作家の第一線で活躍し続けた。

桃山婦人寮の寮母室には小さな机と古い広辞苑が一冊きり。
不良少年イナガキタルホの非行がはじまったのは、異人さんの行き交う港町神戸。大正2年開催の「京阪神都市連絡飛行」に出かけたタルホ少年は、当時12歳。眼をお星さまのように輝かせ、一瞬にしてヒコーキに恋をした。
飛行願望の虜になってしまった少年は、拙い手つきでヒコーキをつくる。まだ、航空機会社もない時代である。タルホ手製のヒコーキは、もちろん飛ばなかった。そんなわけで少年タルホの文学的飛行がはじまる。
お月さまを追ってときには天上を、地面に転がったホーキ星を見つめてときには地上へ。四次元空間を縦横無尽に駆け巡る。
星の王子さまはとてもアヴァン・ギャルド。抽象指向にして極度の天体嗜好症である。
数々のモティーフたち、なかでもフェイバリットは少年愛。
タルホ・スコープに捉えられた弥勒は、広隆寺にお住まいとのこと。優雅な陰影に象った半跏思惟像のほっそりとしてかつ膨らみのある麗しき体躯。この曲線美こそ、じつは少年の持つそれだった。
昭和25年、結婚を機にタルホは住居を京都に移し、49歳からの30年近い半生をこの地で過ごす。
児童福祉司として働く志代夫人は、まるで不良少年を引き取るかのように彼を京都に呼び寄せた。桃山婦人寮の寮母室には、小さな机と古い広辞苑が一冊きり。貧しくとも清く、かつ抽象的な生活であった。永遠の美少年さながら、色褪せることなくキラキラ眩しいタルホ文学は、宇宙の記憶を未来から、そっと耳打ちする。
稲垣足穂 稲垣足穂 (inagaki taruho) 1900-1977
詩人・小説家。大阪市船場生まれ。関西学院中学部卒業後、上京。佐藤春夫の知遇を得て、小説を書きはじめる。シュルレアリズム、未来派などの絵画にも傾倒する。『一千一秒物語』を処女出版。私小説『弥勒』、エッセイ『A感覚とV感覚』は諸家の注目を集めた。1969年、『少年愛の美学』が三島由紀夫の高い評価を受け、第1回日本文学大賞を受賞した。

青春の儚すぎる光。
明滅するかのような光の強弱は、
消え入ることなく、
深い闇をも知らしめる。
言葉の純粋さを信じ徹すには、
じゅうぶんに永い生命だった。

梶井基次郎は明治34年、大阪で生を受けた。京都の第三高等学校に在学していた大正8年からの5年間を、京都で過ごしている。
典型的な文学青年だった。文学に身を捧げるようにして多くの草稿を書き、多くの手紙を友人たちに書き送った。貧困と苦渋のなかで肺を患い、その後、健やかな肉体を取り戻すことはなく、31歳の若さで夭折する。文士を志す同志と出会い、理想を語り合った京都での学生時代。のちに梶井の代表作となった小説『檸檬』の草稿が書かれたのも、この頃である。22歳だった。病に蝕まれた身体を抱え、彼の精神は常に死と隣り合わせにいた。死を視界に捉えていた彼の瞳は、どんなものをも透過する、純粋さだけが残されていた。
射す光を遮る肉体の、足元には闇のような影が落ちる。
不吉な病者の眼に、燃え尽くす生命の光と闇は際立っていた。それらは、等価に美しかった。彼は心底へ微かに射す光を、それを受け入れる闇を、どれほど純粋に喜んだだろうか。そして、その歓びの尊さを書かざるを得なかった。病魔は確実に彼の身体を蝕んでいく。
その疾さと並走するように、言葉は生まれ、紙面に刻みつけられていった。
梶井基次郎 梶井基次郎 (kajii motojiro) 1901-1932
小説家。大阪生まれ。京都三高理科に入学するが、次第に文学に惹かれ、東京帝国大学英文科に入学する。積極的な執筆活動をはじめるが、少年時代からの肺結核が悪化したため、卒業は出来なかった。療養中の伊豆湯ヶ島温泉で川端康成などと親近し、創作活動を続ける。病状が悪化するなか、初めての創作集『檸檬』刊行。翌年、郷里の大阪にて逝去。享年31歳であった。

人を慰撫し、生きる決断をさせたのは、今洗われたばかりの緑だった。
琵琶湖疎水が着工されたのは明治18年のこと。運河を延々と繋いで琵琶湖の水を京都市内にまで取り入れて水力発電事業を興そうというものだった。その結果、京都の近代化に大きく貢献した。
そして、疏水は、山裾や公園、市街までをも縫い、周辺は四季折々の美しい景色となって残された。憂鬱を抱いてそこを歩む若き作家が胸に留めたのも、そんな風光だった。心の奥深いところから自然に湧いてきた言葉、「ひとりでも生きてゆくことが出来る」。人を慰撫し、生きる決断をさせたのは、今洗われたばかりの緑だった。
田宮虎彦 田宮虎彦 (tamiya torahiko) 1911-1988
小説家。東京生まれ。東京大学国文学科卒。都新聞記者見習いをはじめ、さまざまな職を転々としながら、創作を続ける。小説『霧の中』で文壇の注目を受け、以後、歴史小説や自伝的小説とモチーフを異にしながら、過酷な運命や時代への呪縛と反発を描いた。代表作に『落城』『絵本』などがある。

惚れた弱みも哀れみも、石畳にとけて
私小説とは、「私」を描写する。秋江は、惚れた女にいいように扱われ手玉に取られている惨めさも描写する。しかも悲惨を悲惨と思っていないかのように。花街に生きる女への熱い情を吐露し、彼女の女性美を手放しで讃える。
京の女も京の街景色も、濡れてしっとりと作家の筆致にとどめられる。河原町界隈の石畳も、艶めいていただろう。哀れを哀れむのではなく、心根に染みわたらせて描く。これもまた、文士の渾身だと思わせる。
近松秋江 近松秋江 (chikamatsu shuko) 1876-1944
小説家。岡山県生まれ。早稲田大英文科卒。岡山中学時代、樋口一葉の『にごりえ』に共感し、文学を志す。京都の遊女金山太夫との交渉に取材した『黒髪』をはじめ、『疑惑』『舞鶴心中』は情痴小説の傑作とうたわれた。長女誕生を機に作風を転じ、『子の愛の為めに』『恋から愛へ』を発表。晩年は両目失明という悲運のなかで没した。

昭和15年、俳壇の精鋭たちが、京都・松原署に連行された。
「京大俳句」は、平畑静塔、中村三山等が中心となって昭和8年に創刊されている。西東三鬼は、平畑の招きによって、昭和10年に、三谷昭とともに入会している。昭和15年、その句誌「京大俳句」の主要な俳人たちが、治安維持法違反に嫌疑によって検挙された。京都・東京・大阪・神戸と、メンバーが分かれていたが、京都府警察部に集められた。
従来の有季定型といった伝統的な句形を打破しようとしたいわゆる新興俳句の世界を時の国家権力は、危険分子と見なしたのである。俳句の自由性や前衛性を前面に出した作風を、権力側が読解する以前に、難解で自由放恣であるから捕らえなければならないと、考えたのである。現在では考えられないことが、そうした時代であった。これが、昭和を通じ句界史上最大の事件「京大俳句事件」である。
句友たちがどんどん検挙され、京都の松原署に拘留された。そして彼らは、自己犠牲に徹しながら、仲間たちをかばった。友情といった、ただ優しさに根ざした感情ではなかった。彼らは、互いにそれぞれの句を愛した。罪を免れた、誰彼が、「我らの俳句に続けよ」といった願いがそこにはあった。三鬼は、徹底して、シニカルに世に相対していた。
三鬼は、釈放後、沈黙した。そして彼らの多くは、戦中、筆を折った。俳句をつくることで捕らえられた彼らは、沈黙はしたが、「京大俳句」が記した前衛の波は、戦後へ、現代へたしかに受け継がれた。
生きたこと、かばったこと、黙ったこと、そして理不尽な理由で拘留されたその歴史こそが、じつは前衛を育んだとも言える。なによりもそこには、文学することで強く結ばれた友情があった。
西東三鬼 西東三鬼 (saitou sanki) 1900-1962
俳人。岡山県生まれ。日本歯科医専卒。歯科医としてシンガポールに渡り、帰国後は東京で病院勤務。患者のすすめで俳句をはじめ、「京大俳句」に加わる。弾圧され、いち時俳句を廃したが、戦後には『天狼』を創刊させ、俳句性の追求に意を注いだ。句集に『旗』『三鬼百句』『夜の桃』などがある。

月はおぼろの東山
かすむ夜ごとのかがり火に
夢もいざよう紅桜の思いを振袖に
祇園恋しやだらりの帯よ

大正ロマンの旗手と言われた作家、長田の名を知らなくても、昭和の初めに大流行したこの祇園小唄を知っている人は多い。明治の末、長田幹彦が祇園の地で谷崎潤一郎や吉井勇などと交流を持ったことが、谷崎の日記などによって知ることが出来る。
谷崎の作品に祇園を舞台にしたものは少ないが、長田は、『祇園夜話』や『祇園絵日傘』等の小説のほかに歌詞などを多く残している。谷崎は、祇園のことは長田に任せたかのようである。
若い頃に苛烈な放浪体験を経て辿り着いた京の街。作家がまさに耽溺した都の艶めいた風光が、北嵯峨を描いた本文でも色濃く表れている。
長田幹彦 長田幹彦 (nagata mikihiko) 1887-1964
小説家。東京麹町生まれ。早稲田大学英文科卒。在学中に発表した小説『澪』が正宗白鳥らに認められ、次作『澪落』で一躍人気作家になる。以後、『祇園夜話』等の諸作で情話作家として文壇にひとつの流行をもたらした。『祇園小唄』『島の娘』など歌謡の作詞制作者としても著名である。

かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる
祇園を訪れた作家は、数多い。しかし、そこに住みついてしまったのような作家は珍しい。吉井勇は、東京生まれの歌人である。最初は旅で訪れたのだろうが、心底、京に惚れた。
祇園の茶屋のしきたりだが、客が飲みはじめたら、その客人が「帰る」と言うまで、何時間でも何日でも何年でもその場にいることが出来る。つまり、茶屋に住むことだって、可能なのだ。惚れれば、いつまでもどこまでも。吉井の場合、京の花街にぞっこんだったのである。
そんな気持ちが満ち満ちた文章である。有名な、名歌のあとにこんな浪漫的な散文が続いていたことは、あまり知られていない。
孤独をよりどころに歌ってきた歌人が生涯のうちに出会ったこの世のパラダイスが、祇園なのだ。今でも京の年中行事として開催される「かにかくに祭」は、祇園の白川畔の歌碑を囲んで華やかに繰り広げられる。歌人が愛した、白菊を手に祇園の舞妓たちが集まって。
それにしても贅沢の極みのようでもあるが、文芸とは言葉を綴ることの無窮を刻む芸術であるならば、これもまた、文学の本流を生きたと言えなくもない。街に惚れた。それから数年が過ぎ、街は、吉井勇という人を愛した。相思相愛の文芸が、ここにはある。
吉井勇 吉井勇 (yoshii ishamu) 1886-1960
歌人・劇作家。東京の伯爵家に生まれ、少年時代から歌に親しむ。早稲田大学政経科を中退し、新詩社に加わる。石川啄木、高村光太郎などの知遇を得たのち、『スバル』を創刊。処女詩集『酒ほがひ』により、その歌名を一躍世にひろめた。以来、祇園や東京下町の情調を頽唐享楽的に歌い、晩年は人生の悲哀を歌う歌風に転じた。小説、随筆なども多く残されている。

晴れやかな京の旅が、出会いの喜びを加速する。
正岡子規は、7歳年下で三高の学生だった高浜虚子と京で再会した。大学を退学し、「日本新聞」に入社することが決まっていた子規には、洋々とした気が満ちていた。上洛の前、虚子がまだ中学生のときに、当時東京帝国大学の学生だった子規と、そして夏目漱石に出会っていた。
まさに、子規にとっては虚子は、可愛い後輩であり、虚子にとっては眩しき師のような存在であっただろう。
しかし、後輩に出会って、この手放しの喜びようは尋常ではない。文学の世界に船出することの満身の歓びと希望が、このときに京に会した。当日、若き二人を包んだ嵐山の「空晴れて」いる初冬の景色は、抜けるような紺碧だった。
正岡子規 正岡子規 (masaoka shiki) 1867-1903
俳人。愛媛県松山市生まれ。松山中学中退後、上京して東京帝国大学に入学する。小説家を志していたが、韻文に転校し、「俳句分類」に着手する。日本新聞社に勤務する傍ら、俳句革新、短歌革新に活躍するが、カリエスのため生涯病床生活を余儀なくされる。『ホトトギス』『日本』などで写生文を唱道する論を展開、近代文学史上に大きな足跡を残した。主な著書に『竹の里歌』『俳諧大要』『仰臥漫録』などがある。

見つめることの強さ、言い切ることの凄さ
漱石は、生涯のうちに四度、京都を訪れている。滞在日数は延べ51日間。『京に着ける夕』は、明治40年、二度目に訪れたときの一夕の印象を記した小文である。漱石は41歳であった。全編に流れている詠嘆は、亡くなった友、正岡子規の死に触れた感情であるようだ。
互いがまだ若かった頃、二人して訪れた京の思い出。心の裡に振り返ったそこに、ぽっかりと象徴のように浮かんでいる「赤いぜんざいの大提灯」。それを京都の「第一印象でまた最後の印象」とまで言い切る。しかも、ぜんざいを「食った事がない」漱石が書いているのである。直観であろう。ある種の本質に辿り着く卓抜なインスピレーション。本音や真情であるのだろう。そう感じたのだから仕方がないよ、という一途な思いが貫かれている。
子規という、巨大で真っ赤な心の灯が消えた。消えた哀惜と空虚のシンボルとして、漱石は、ぜんざいの提灯の存在を子規と来た京都そのものと強引に結びつけたのだろう。なぜ、と、疑問を挟む余地のないほどに、乱暴で理を超えている。
夏目漱石 夏目漱石 (natsume souseki) 1967-1916
小説家。東京新宿生まれ。東京帝大英文科卒。大学院進学後、松山、熊本などで教鞭をとったあと、渡英。帰国後は帝大で英文学を教えるが、教師生活を嫌悪し、学生時代からの神経衰弱が悪化。処女作『吾輩は猫である』、次いで『坊っちゃん』『草枕』などの作品を次々と発表する。教師を辞したあと、朝日新聞社に入社。『虞美人草』の連載をはじめる。その他の代表作に、『三四郎』『それから』『こころ』などがある。

京都で学生時代を過ごすことの、身が軽くなったような自由さと愉快さ。
当時、三高の学生として京都に下宿していた高浜虚子。小説『俳諧師』で描いた新京極の猥雑ともいえる賑わいに閉口していたかというとそうでもないようだ。このあとに「此雑踏が少しも癪に障らぬばかりか目に入るものが皆一種の好意を以て迎えるやうに感ぜられる」と記している。 自嘲めいた記述だが、自らの下宿を「化物屋敷」といってみるのも、仮住まいゆえの気楽さがそうさせているのであろう。旅のような気分の遊学体験だったかも知れない。明治の中頃の話だが,現代の世にも通じている。京都で学生時代を過ごすことの身が軽くなったような自由と愉快さが、ここには感じられる。もちろん、経済的には豊かではなく暮らしぶりは質素であったろう。しかし、どこを探しても心を縛るものがない。そんな人生の最良のときだったのかも知れない。
高浜虚子 高浜虚子 (takahama kyoshi) 1874-1959
俳人、小説家。愛媛県松山市生まれ。松山中学時代、河東碧梧桐の紹介で正岡子規を知り、俳句をはじめる。京都三高に入学するが文学への志が募り、上京。『ホトトギス』を東京版として刊行した。いち時、夏目漱石の影響で小説に転じたが、俳壇に復帰。子規の写生説を基底に「花鳥風詠」を唱え、『ホトトギス』全盛時代を築いた。

日本語の持つ優雅な音楽性のソネットと大原の里の風雅さ
大原女の歴史は、中世にまでさかのぼる。前結びの帯、着物の裾をからげて足に脚絆を巻く正装は、建礼門院に仕えた女官たちが柴刈りのときにとった姿と伝えられている。
韻律の美しさで、明治浪漫文芸を代表する詩人、薄田泣菫。京を訪れた折りにふと出会った大原女に、切々と心情を託している。日本語の持つ優雅な音楽性が京の里の風情に溶け込むかのように謳われている。
薄田泣菫 薄田泣菫 (susukida kyukin) 1877-1945
詩人。岡山県生まれ。岡山中学中退。キーツやワーズワースに親しみ、ソネット形式を模した『花密蔵難見』が高い評価を受ける。島崎藤村引退後、詩壇の第一人者に。詩集『白羊宮』では古代憧憬のロマン精神を古語・雅語に託して自在に駆使し、端正な詩形による独特の詩風を確立させ、明治文語定型詩の頂点を極めた。

雀だけではない
室生犀星は金沢の詩人であり、小説家である。犀星といえば郷里の『犀川』を描いた作品が有名だが、京の加茂川を見つめる目も、吹きすさぶような寂情が滲んでいる。
なにか悲嘆に暮れるとき、川の流れは暮れかたをさらに急ぎ、増す。そのとき、枯草のあいだで鳴いていたのは、きっと雀だけではなかっただろう。
室生犀星 室生犀星 (murou saisei) 1889-1962
詩人・小説家。石川県金沢市に私生児として生まれる。貧窮生活のなか、働きながら文学を志す。萩原朔太郎らの知遇を得て、処女詩集『愛の詩集』、第二詩集『叙情小曲集』を刊行し、詩壇での地位を獲得する。のちに小説家としても一家を成しており、主な作品に、『あにいもうと』『杏っ子』などがある。

京、哀愁の夜からはじまる「古寺巡礼」の旅
見聞したり体験したものごとを、まるで呼吸するように自らに刻みつける即断性。鋭敏な感性が触手となってあらゆる事物に向けられている。そのことの真摯な姿勢が、見るものの心眼の純朴を晴らせ、透徹する真理を導いていくかのようである。『古寺巡礼』は、京都の夜の心情吐露からはじまっている。刊行から6年を経て、和辻は京都帝国大学の講師として招かれ、約10年間、左京区の若王子に居住することになる。哲学の道の疏水ベリからほど近い、閑静な佇まいの日本家屋だった。それは、わびとさびを具現化したようなひとつの典型であり、庭には紅葉する樹木が群れ、池には菖蒲や杜若が季節の彩りを見せていた。静かであることが、鋭い思念の道を開いた。
和辻哲郎 和辻哲郎 (watsuji tetsuro) 1889-1960
哲学者。兵庫県生まれ。東京大学哲学科卒。奈良の寺院や建築、仏像などの印象を世界文化史を背景として綴った『古寺巡礼』により、広く知られるようになる。仏教思想史から西欧精神史まで幅広い研究を重ね、京都帝大の教授に就任後は、倫理学の構想を手がかりに日本人の社会観を説いていく。『鎖国』『桂離宮』など、文化史家としても数々の名著を残している。

善を学問的に説明すれば色々の説明は出来るが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち、真の自己を知るというに尽きて居る。
と、西田幾多郎はその著書『善の研究』で述べている。
西田は、思い考え、そして歩き続けた。もっともよく散策したと言われる銀閣寺から若王子へといたる疏水ベリが、今でも「哲学の道」と呼ばれているのは、この由来からである。思索の舞台は、市街のみならず京の郊外にまでひろがる。散策の途上で、真理を発見しうなずくこともあれば、苦悶をさらに深めることもあった。哲学者を包む今日の自然はいつも変わらぬ姿のままに。
西田幾多郎 西田幾多郎 (nishida kitaro) 1840-1945
哲学者。石川県生まれ。東京大哲学科卒。のちに京都帝大教授となる。『善の研究』によって思想界に登場。西洋哲学の手法を取り入れつつ東洋の思想伝統を表現しようと試みる。独自の概念と論理の構築につとめ、大きな功績を残した。著書に『働くものから見るものへ』『一般者の自覚体系』などがある。

粋と美を貫いた思索。そして、優しきまなざし。
旧制一高から東大哲学科に学び、9年ものヨーロッパ留学を終えた九鬼周造が京大文学部の講師に招かれたのは、昭和4年4月。主著である『「いき」の構造』において、「いき」を三つの言葉で分析した。それらの要素は難しい西洋哲学の学術用語ではない。「媚態」「意気地」「諦め」。私たちの心の奥底を眺めれば誰しもが行き当たる心情であるが、それを普遍へいたるほどの思索に高めた。哲学することにも、粋や美しさを求めたのだろうか。留学時に詩歌を盛んに発表したその文章は、華やかで流麗である。そのまなざしもまた、そして優しい。
九鬼周造 九鬼周造 (kuki shuzo) 1888-1941
哲学者。東京生まれ。東大哲学科卒業。東大大学院を経て京大の講師、のちに教授となる。ドイツ、フランスに留学して諸派の哲学を研究する一方、日本的感性や美意識についてもきわめて鋭い分析を行った。著書に、『「いき」の構造』『人間と実存』があり、死後、『文芸論』『をりにふれて』が刊行された。

泥より出ずる、清らかな蓮華のように
信仰が生活とかけ離れていないところに美しさが生じる。何の報いも要しない行為の清純な精神性に、柳宗悦は「信の美」を見出した。
仏教では、地獄で苦錬する罪人を浄土へ迎え入れるのが地蔵菩薩である。人々のもっとも身近なところから無情の慈しみを施す仏をいう。柳の美学の根底には仏教の教えがあった。仏は善悪を分け隔てせず受け入れ、罪人をも救う。けっして裁かず、善と悪という二元を持たないのである。おなじことが、美と醜においても言えるのではないか。美術工芸品として知で理解されたものだけではなく、無名の職人が手がけた民芸品にも美は存在する。心の浄さが「信の美」となって表れるのである。
昭和2年、上賀茂の地に建てられた「日本民芸館」を拠点に、柳は、「民芸運動」を興す。民衆の暮らしの中に埋もれていた美の世界に、救いの手を差し伸べたのである。
軒を連ねる民家、その隙間にわずかな空を開ける小さな祠。祀られた地蔵菩薩が京の町々を見守る。道行く人がふと足をとめて手を合わせ、お辞儀をして過ぎる姿。無心の祈りを思わせる、そのような光景が見る者に美しさを気づかせるのであろう。
柳宗悦 柳宗悦 (yanagi muneyoshi) 1889-1961
宗教哲学者・民芸研究家。東京生まれ。東大哲学科卒。ウイリアム・ブレイクなどの欧米の神秘主義を体系的に研究する。日韓併合以後、朝鮮の民衆による美術工芸をきっかけとして、日本美術工芸の真義を問いかける民芸運動を提唱した。雑誌『工芸』を発行、1927年、京都に日本民芸館を開設。その後、仏教美学の概念を構築し、独自の美学思想を展開した。

語りかけられる声は少なくとも、声ならぬ声は自然の生命から溢れていた。
上賀茂神社に仕える社家。けっして裕福だとは言えない家庭に生まれた。実父は魯山人の誕生を待たずに自死している。生まれて間もなく里子に出され、何人もの里親のもとをたらい回しにされて育った。「兄妹もなし、叔父、伯母も、およそ血縁というものに何の縁もなしに、この年まで来てしまった。それですから愛情というものを知らない。」後年、彼は自分の生い立ちを、こう回想している。
語りかけられる声は少なくとも、声ならぬ声は自然の生命から溢れていた。彼の耳に届く鮮明な声音を心に響かせ、魯山人は味道を極めたのである。
昭和34年、天性の美食家は亡骸となり、京都市の北西、西方寺に埋葬された。京の地を離れてもなお静かに慕い続けていた故郷の風景。地底ではまだ、からからとたにしが鳴いているだろうか。
北大路魯山人 北大路魯山人 (kitaoji rosanjin) 1883-1959
京都・上賀茂の社家に生まれる。陶芸、彫刻、書、漆芸、金工芸と多岐にわたる芸術を独学、独習で成す。また料理研究家として、素材選びから盛りつけまでを芸術の領域にまで高めた。大正時代に『美食倶楽部』『星岡茶寮』を創業。使用する一切の食器を創案・製作する。没後、さまざまな語録を集めた『魯山人味道』が刊行された。

生きる営みを丁寧に行ないなさい。
茶懐石の名店「辻留」の主人であった辻嘉一には、献立帳をはじめ自らの料理に対する心構えを記した随筆が多く残されている。食するとかたちを失ってしまう料理というものに、柔らかな輪郭を与えて書き記された著書。食材の見方から調理法、そして料理の心得まで、それに携わることの出来る歓びと感謝が、慈しみを込めて丁寧に語られている。
謙虚な面差しと穏やかな振る舞い。なるほど残された献立帳には手にとるように、彼の自然観と、それを伝え残そうとした誇り高き思念が滲む。生かされてあるものとしての人間は、ものを食さなければ存在し得ず、すると食事を行うこともまた、人生における修行ではないだろうか。穏やかな優しい言葉で書き残された献立帳から、彼の心の声が届く。
「お料理の上手下手は、心入れの深さ如何によって決まるのであります」。京都に生まれ京都に育った辻嘉一。生涯の大半を過ごしたこの地のこと、ともに暮らした家族のことを綴った温かな文章も、数多く添えられている。誰かのために料理する、感謝の心でそれを頂く。生命が続くかぎり、そのささやかな営為は受け継がれていくのである。
辻嘉一 辻嘉一 (tsuji kaichi) 1907-1988
料理研究家。京都生まれ。14歳より包丁をとり、懐石を業とする。父親のあとを継ぎ、京都三条大橋東にある懐石料理『辻留』を経営。現在は東京にも店を構える。テレビ、ラジオ、雑誌、講演と多方面に活躍し、『懐石白書』『茶懐石』『辻留のすすめる家庭料理』『五味六味』など多数の著書がある。

どうして子供の自分から食い慣れたものがこんなに美味いのだろう。
大正2年、40歳の頃、ひとりフランスから帰国した藤村は、東京ではなく、神戸港から京に入った。そして、南禅寺の瓢亭で京懐石を満喫する。異国にいて、恋しかったのは故国の味を愛でる時間だったのだろう。献立を記したあとに、舌が、感覚が、染み通るほどの歓びの一文が記されている。
島崎藤村 島崎藤村 (shimazaki touson) 1872-1943
小説家・詩人。長野県木曽郡生まれ。明治学院卒。北村透谷らと『文学界』を創刊し、教職に就く傍ら、詩を発表する。処女詩集『若菜集』を刊行する。 1906年、約7年の歳月をかけて完成させた長編小説『破壊』を自費出版するやいなや、夏目漱石らの激賞を受け、自然主義文学の旗手と称される。以降、『家』『新生』『夜明け前』など、次々と作品を発表した。

あくまでさりげなく鋭く。「陰翳礼讃」の眼力。
わらんじや」は、現在も「わらじや」と名を変えて東山七条にある。うなぎを卵でとじたうぞうすいで有名な名店だ。なにかの折りにふと立ち寄った店で、店内を観察する。店とは「見世」でもあるから、作家は、存分に世を見立てる。京都にある一軒の老舗の佇まいから、日本文化の一端を見据えている。
谷崎潤一郎の代表的な随想『陰翳礼讃』が書かれたのは、昭和8年のことである。昭和の世になっても蝋燭の灯だけで営業していた料理屋があったことには驚くが、朱塗りの漆器の「沼のような深さと厚みを持ったつや」を当時の店主は、知り尽くしていたのだろう。不便だとか、便利だとか、食事をただ「食すること」と即断して、流行りの店を追うグルメブームとは、まったく楽しみの尺度が違う。訪れた客は、亭主の美意識を感知する。ただ黙って、その美の空間に溶け込む。味は美意識の延長で堪能される。存分に時を過ごし、ふと満足のよりどころを探す。そして、手を打ってうなずく。ああ、あの店の魅力は「ほのくらさ」だ。「陰」だ、と。
主客の直観勝負なのかも知れない。一軒の店で感知した、ただひとつのことを貫いて、日本美の本質にまで洞察を深める。文豪は、素知らぬ顔で店を去っていくが、店もまた、素知らぬ顔で代々のスタイルを守る。普通に、普段のまま。
谷崎潤一郎 谷崎潤一郎 (tanizaki junichiro) 1886-1965
小説家・詩人。長野県木曽郡生まれ。明治学院卒。北村透谷らと『文学界』を創刊し、教職に就く傍ら、詩を発表する。処女詩集『若菜集』を刊行する。 1906年、約7年の歳月をかけて完成させた長編小説『破壊』を自費出版するやいなや、夏目漱石らの激賞を受け、自然主義文学の旗手と称される。以降、『家』『新生』『夜明け前』など、次々と作品を発表した。小説家。東京日本橋生まれ。東京大学国文科中退。在学中より創作をはじめ、同人雑誌に発表した『刺青』等の作品が高く評価され、作家になる。関東大震災を機に関西へ移住。西洋的なスタイルから純日本的なものへの指向を強め、伝統的な日本語による美しい文体を確立する。1949年、文化勲章授章。主な作品に、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などがある。
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