Luis presents! DEEP KYOTO 2004 all right reserved
Google
平等院
平等院

あの世を再現する

末法の時代と浄土式庭園

平安時代に栄華を極めた摂政藤原道真の別荘を、その子である頼通が1025年に寺院に改めた。それが平等院である。浄土式庭園の代表として、建物から仏像にいたるまで、すべてが国宝に指定されている。1996年には世界遺産にも登録され、京都を代表する庭園のひとつといっていい。特に、鳳凰堂は、左右の翼をひろげて今にも飛び上がらんばかりの躍動感で見る者を圧倒する。
浄土式庭園とは、平安時代に流行した様式で、浄土、すなわち、あの世を再現した庭である。
仏教では、ブッダの死後、2000年は平和だが、2001年目からは恐ろしい末法の時代になると考えられていた。平等院の造られた1052年は、まさに、その末法初年にあたる。末法の世においては、死後成仏出来なくなる不安のなかから、あの世である浄土、なかでももっとも清らかな極楽に往生することを願い、極楽浄土を再現した庭園が全国で盛んに造られるようになった。
そのため、鳥羽離宮や法住寺、無量寿院(すべて現存せず)、法金剛院、奈良の円成寺、横浜の称名寺、岩手県平泉の毛越寺、観自在王院、いわきの白水阿弥陀堂など数多くの浄土式庭園が平安時代に集中的に建てられた。しかし、当時のかたちをよく残す例としては、平等院と浄瑠璃寺など、わずかしかない。

藤原氏葬送の地

平等院のある宇治川の畔は、古来、貴族が晩年を過ごす隠居地として知られ、平等院の建てられた場所にも、かつては源融の別荘、宇治院があったことがわかっている。この宇治院が999年に藤原道長のものとなり、その子頼通によって平等院に受け継がれた。
なぜ藤原氏に受け継がれてきたのかといえば、宇治市北部の木幡周辺が、794年の平安遷都以来、藤原一門の埋葬地であったことに関係する。つまり、埋葬の地の近くで晩年を心安らかに過ごす目的があった。現に、頼通は83歳まで生き、1074年、この平等院で没すると、宇治の木幡に埋葬された。平等院の地は、藤原氏にとって往生極楽を願う場所だったのだ。

極楽浄土を立体で再現する

当麻曼荼羅

それでは、平等院を造るにあたり、作者は極楽浄土=あの世を、どのように再現しようとしたのだろうか。
平等院が寺になった翌1053年には、阿弥陀堂 (鳳凰堂) が建てられた。鳳凰を模した建築で、翼に見立てた左右対称の翼廊と尾に見立てた尾廊を持ち、大屋根の両端に鳳凰の彫刻が飾られている。また、堂の内部には、死者を極楽浄土へ送り届けるという阿弥陀如来像が安置されている。
あの世を再現するために、なぜこのようなものを造ったのだろうか。極楽浄土を描いたといわれる「当麻曼荼羅」という絵図がある。この図を見ると、中央に平等院の阿弥陀堂そっくりの建物とそのなかの阿弥陀如来が描かれている。
つまり、平等院は、この平面的な絵画を立体として、極楽浄土を再現することを意図したのである。現在は古色を帯びて、落ち着いた雰囲気だが、当時は、建物の外部も内部もすべて極彩色が施されていた。極楽浄土は、やはり、光り輝く極彩色でなければならなかったのだろう。地上最高の装飾、人間の注ぎうる最大の労力を結集したのが、平等院であった。
当時最高の仏師、定朝作の阿弥陀如来像に連れ添うように、51体の雲中供養菩薩と呼ばれる群像が雲に乗って壁面を飛んでいるが、これが、阿弥陀堂の造型とともに浮遊感覚に満ちている。
人の臨終の瞬間、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏、よろしくお願いします) と唱えると、数多くの菩薩を引き連れて迎えにくるという、阿弥陀如来のイメージを浮遊感覚でリアルに表現しているのである。

三途の川と西方浄土

平等院庭園は、平安京から見て宇治川の対岸に位置している。
つまり、平安京を訪れるには、宇治川に架けられた朝妻橋、あるいは宇治橋をわたってアクセスすることになる。
じつは、この行為自体、死者があの世へ行く途中で必ずわたる三途の川をわたることに等しい。また、橋は東西方向に架けられ、平等院はその西にあり、阿弥陀如来は東向きである。これは、あの世が西にあるという西方浄土の考えかたと合致している。これらの位置関係もまた、平等院庭園を極楽浄土に見立てようとすることを意図するものだ。
『栄華物語』によると、藤原道長は自らの往生極楽のために、無量寿院と呼ばれる浄土式庭園を造り、1027年、ここで臨終を迎えたが、この庭園は鴨川べりにあり、橋をわたって出入りしたという。やはり往生極楽の場所は、三途の川の対岸になければならないという考えかたが、ここでも反映されているちなみに、無量寿院には、平等院と瓜二つの阿弥陀堂があったことが、近年、明らかになっている。

「この堂を造ったために地獄に堕ちる」

宇治川は戦争の際、京都の南の防衛線となる。しかも瀬田川を経て琵琶湖に通じ、また桂川、淀川を経て京都や大阪、海にまで通ずる水上交通の要であった。
さらに大和街道が通る宇治橋は陸上交通の要であり、ひとたびコトが起これば、宇治橋を落とし、平等院内に兵が群集した。そのつど平等院は兵火に見舞われ、楠木正成が平等院の建物を焼いたことは、『太平記』に詳しい。その結果、今、往年の姿を偲ぶことが出来るのは、阿弥陀堂と灯籠、阿字形池と地形としての庭だけになってしまった。
たとえば、かつては、現在よりも1メートルも地盤が低く、阿弥陀堂前面が開かれ、宇治川や仏徳山、朝日山を庭園から臨むことが出来たという。仏徳山には宇治神社 (国宝) があるが、平等院阿弥陀堂の軸線上に位置し、一対で計画的に配された可能性もある。東正面の山から朝日が昇るのを拝めたから朝日山というのも、おそらく平等院と無関係ではない。当初は、金堂、講堂、五重塔、三重塔、東西法華堂、五大堂、宝蔵、釣殿、大門などの大伽藍を誇っていたのである。
これらの造営にかかわったのは、荘園の下層庶民たちであった。平等院が造られた年代は、単に末法突入の恐怖だけではなく、現実の大飢饉という地獄が近畿周辺を襲っていた。米を収められないなら身体で払えとばかりに、強制的に奉仕させられた。
『続古事談』によれば、頼通が後見人に、「平等院を造ってどんな徳が得られるのか」と聞くと、後見人は、「餓鬼道の業などであろう」と答えた。また、『沙石集』によれば、平等院を訪れた僧は、「この堂を造ったために地獄に堕ちるのは気の毒」 といっている。
これらの様子から、造営にかかわった民衆がどんな状態におかれていたか、おおよその理解が出来る。餓死者や、樹木や石の下敷きになって死んでいった民衆を顧みることなく、領主はただ藤原一族の往生極楽のみを祈っていたに違いない。
雲中供養菩薩の修復中に、阿弥陀堂内に工事にかかわった労働者たちの落書きが多数発見されている。苦悩で歪んだ庶民の顔、都大路を絶叫しながら裸足で逃げる庶民の姿などである。この建築の豪華絢爛さとは、まさに正反対の地獄絵である。なにが平等なのかということを、ここに来ると考えさせられてしまうではないか。

ルイス之印

■平等院
宇治市宇治蓮華116
拝観/9:00-17:00 大人600円
top