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嵐山の喧騒を逃れて、大悲閣×フィッシュマンズでシエスタする

大悲閣

朝日文庫から出ている司馬遼太郎の人気シリーズ『街道をゆく』は、読むとたちまち司馬が歩いた道をなぞってみたくなるような、素晴らしい紀行文なのだった。この小説家は、紙に封じ込まれた味気ない歴史に血と肉を与え、泣きも笑いもする生身の現実を与えてくれる。そのような小説家が書く紀行文は、訪れた地の幾重にも重なった地層を単純に掘り起こすだけでなく、それこそ、そこが生身の人間の無名で無数の営みが積み重なった場所であることを、思い出させてくれる。
このシリーズの第26巻に、『嵯峨散歩』の一編が収められていて、渡月橋や天龍寺などのメジャーなスポットにまじって、「大悲閣」なる名がそこにあるのだけれど、ありとあらゆる場所が踏破され蹂躙されたと思われる嵐山にあって、ここだけは、掃射を免れたようにひっそりとたたずんでいる。何度目かの嵐山なら、行くべきはここだ。

阪急電車の嵐山駅を降りて、嵐山公園を抜け、渡月橋をわたって目抜き道路を歩いて天龍寺を訪れ嵯峨野へ入っていくのがメジャーなコースなのだけれど、大悲閣は、このコースから外れている。渡月橋をわたらずに、川の西側に沿った道を歩く。15分から20分は歩く細い一本道なのだけれど、これがいい。左手は鳥ヶ岳の山林、右手は桂川である。桂川は道のすぐ横にまで水をたたえたり、ある場所では石の川原を抱えたりで、その起伏に富むさまは眺めているだけで楽しくなってくる。桂川の向こうには、大本山天龍寺を抱く亀山公園の山がせりだしている。そして、道に沿った並木の紅葉が、歩く人々の頭上から降り注ぐ陽の光を柔らかい木漏れ日に変えてくれる。なによりもいいのは、この道には、ほとんど人がいないということだ。
嵐山と言えば、全国でもトップクラスの観光都市である京都のなかでも最重要ポイント。はっきり言って、観光客の、それも有害指定したいオバサン集団のいない場所は、どこにもない。どこにもないと断言したくなるほどだが、幸いなことに、メジャーなコースから外れているおかげで、この道を、彼女たちが歩くことはまずない。おかげで、この道は、風が樹々の葉を擦る音と、川のせせらぎと、虫の音しか聴こえない。遠くで、トロッコ列車の走る音が聴こえるのは、かえって風情があるというものだ。
歩くなら、夏の前後がいい。青々とした若い紅葉の緑とその緑に濾された柔らかい陽の光が、どれだけの憂鬱を抱えていても、生きる希望の力のようなものを与えてくれる。それも、優しく。そう、優しい、滋味のある道なのだ。

途中、川原のあるところで道を降りて、一服するのもいい。川縁なので、涼しい風が吹いているから、ここで過ごすシエスタは、かなり気持ちいい。

道を進むと、途中、露天の茶店のような構えに出会う。老齢の女性がいて、缶ビールやジュースをクーラーに入れて売っている。司馬遼太郎もこの老婆に出会っていて、その記述が傑作なのである。江戸時代からそこで暮らしているような山姥、と、司馬にしてはエグい記述をしているが、まさにそのとおり。どうして一日に何人も通らないこんな場所で商売をしているのか知らないが、営業権など持っていないに違いないこの店のまえを通る人を捕まえては、ビールやジュースを売りつける。そのやりかたは、巧妙である。その気のない人に、まず、時間を尋ねる。そうやって道往く人の足を止め、世間話に持ち込み、ベンチに座らせる。旅のなかで地元の人に声をかけられて嬉しくない人はまずいないから、大抵の人は、言われるままに腰を降ろす。そして、飲みものを勧められる。その口調は、好意で飲みものを勧めてくれているような口ぶりなのだが、ところがどっこい、最後にはきっちりと代金を請求されるのだ。それも、高い。通常の5割増である。相手は老婆だし、飲んでしまった負い目も手伝ってか、不満はあるだろうが、文句を言う人はいない。ちなみに話の中身は、天気の話や世間話にはじまって、たいていは、老婆の身の上話になる。大阪の出身で東京に嫁いで苦労してどうとかこうとか。まあ、これをうっとおしいと思うか旅のちょっとしたアクセントとして笑って受け入れるかは人それぞれだろうが、二度はゴメンである。

気を取り直して道を進むと、料理旅館の嵐峡館が見えてくる。渡月橋あたりの賑わいから歩いてわずか15分か20分とは思えない、秘境の隠れ家のような旅館である。まだ泊まったことはないが、川のせせらぎを眼下にしたがえた、贅沢このうえない旅館だ。川は、その名を、いつの間にか保津川に変えている。この川は不思議な川で、渡月橋よりも下流を桂川、渡月橋近辺を大堰川、その上流を保津川と名を変える。ちなみに、大堰川という名は、源氏物語にも平家物語にも、その記述がある。平家物語では、このあたりの小高い丘は千鳥ヶ淵と呼ばれ、平重盛の家臣であった斉藤時頼(滝口入道)との恋に破れ、この地に身投げした横笛の話がある。
嵐峡館に辿り着いたら、左手に、山に分け入るさらに細い小道がある。これが、大悲閣千光寺への参道だ。参道入口には芭蕉がこの地を訪れた際に読んだ句「花の山二町のぼれば大悲閣」が立て札に紹介されているが、これについて、司馬遼太郎は、なにやら挨拶じみた句で芭蕉の作品とするには気の毒のような出来である、と書いている。それはさておき、芭蕉のころと違い、今では、花の山といった華やかさはない。代わりに、静寂の山と言いたくなる趣があるばかりである。歩いて10分ほどの参道だが、勾配が急なために汗だくになる。しかし、山門をくぐって、本堂に辿り着くと、汗だくになって登ってくるだけの価値があることがわかる。
そもそも、ここの本堂は変わっている。本堂らしさがまったくなく、威厳もない。ざっくばらんな空間になっていて、写経道具、辞書、ガイドブック、パンフレット、眺望説明図や重軽織り交ぜた蔵書などが置かれている。まるで、どこかの山荘の広間にでも来たような雰囲気なのだ。そう遠くないむかし、ここで算盤教室が開かれていたそうだが、思わず頷いてしまう。そして、開け放した前面からは、眼下に京の景色が一望出来る。保津川の流れはもちろんのこと、京都タワー、大文字山、双ヶ丘、東山三十六峰、比叡山までもが一望出来る大パノラマが広がっているのだ。そして、まるでビルのてっぺんにでもいるような、気持ちのいい風が吹き抜ける。京都中、ここほど素敵なシエスタの場所などないのではないか、と、思ってしまう。椅子に座って眺望を楽しむことも出来るし、床に寝そべってシエスタを楽しむことも、もちろん可能だ。来客に出会う確率は、平日で1組出会うかどうか。もし許されるのなら、フィッシュマンズの音楽を流しながら、シエスタを楽しんでみたい。それくらい、ゆる〜い空間だ。フィッシュマンズはライブ盤の『男達の別れ』がもっとも素敵なのだが、あれは男気が勝ちすぎていて、この場所では似合わないかもしれない。ここは、『宇宙日本世田谷』をチョイスしたい。この本堂の雰囲気には、フィッシュマンズのいたないバックビートがとても似合うから。

最後に、この寺の縁起を。
本尊は恵心僧都作の千手観世音菩薩だが、これは、角倉了以の持念仏である。この寺には、角倉了以が深くかかわっている。角倉了以とは、織豊時代の豪商だが、京都では、高瀬川や大堰川の開削工事を行ったことで知られる人物である。当時、川は、物流の重要な経路であり、角倉が高瀬川を開削したことで、伏見の清酒を京の都まで船で大量に運ぶことが出来るようになった。こう書くと、阪急電車が北摂のベッドタウンと大阪都心を電車で結んで人の移動に貢献したのとおなじことのように思えるが、大きく違う点は、角倉は、川を通る船から通行料をとらなかった。川を開削することは私企業としての利益追求の一環ではあったが、同時に、純粋に社会貢献でもあったのだ。大堰川開削に際して、河川工事協力者から多くの犠牲が出た。難工事だったのだ。大悲閣千光寺は、角倉が、犠牲者の菩薩を弔うために、現在の清涼寺近くにあった千光寺の名跡をこの地に移して創建した禅宗寺院である。
なお、大悲閣という名は、一般的に、観世音菩薩を安置する仏堂のことを指す。大きな慈悲、という意味である。

大悲閣周辺map

大堰川
右手に大堰川をしたがえた一本道。強い陽射しも若い紅葉が柔らかな木漏れ日に変えてくれる。

大悲閣
大悲閣千光寺山門。ここまで辿り着くころには汗だくになるが、それだけの価値はある。

大悲閣
本堂。迫り出し舞台のようにして、建つ。このおかげで、絶景が楽しめる。

眺望
この眺望。なにも説明は要らないが少し説明を加えておくと、左奥にうっすらと映るのが比叡山。手前は双ヶ丘。

角倉以了
本堂に安置されている角倉了以像。開削工事を執り行ったほか、東南アジア各国との貿易で財を成す。どれほどの強い意思が彼の事業を成功に導いたのか、それが窺える不屈の面構えがいい。

フィッシュマンズ『宇宙日本世田谷』
フィッシュマンズの名盤、『宇宙日本世田谷』。日常の退屈を音で表現した、世界初のアルバム。Must buy! Buy or die!

司馬遼太郎『街道をゆく26』
司馬遼太郎の傑作シリーズ『街道をゆく 嵯峨散歩』。もちろん、幾重に重なった歴史の地層を掘削し、あたかも現代の眼前に甦らせる手腕は、脱帽のひとこと。

 

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