キタの芸術が、世界と直結し、同時代性を有し、もっともとんがっていた時代の前衛集団

具体

『具体 Gコレクションより』展 図録より 吉原治良

僕が「具体(具体美術協会)」のことを知ったのは、90年代の半ばにヴェネチア・ビエンナーレで吉原治良の作品が紹介され、前後して芦屋で「具体展」行なわれたときだったと思う。どちらもナマでは見てないのだけれども、その時期に、関連書籍を見て衝撃を受けた記憶がある。

それ以降、「具体」のことは、ずーっと、僕の頭の片隅にあった。

「具体」が結成されたのは、1954年。

岡本太郎がパリから帰国して、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎からはじまる」と宣言したのが1947年。
花田清輝、埴谷雄高、安部公房ら文芸を次のものにワンステップ・ビヨンドさせようとしていた作家たちが、前衛芸術を自分たちのものにしようとしていたのが、1950年代。
縄文土器に衝撃を受けた太郎が、沖縄や東北の古い文化や伝統を再発見し、日本における西洋美術史観に楔を打ったのも、この時代。

「具体」は、そういう時代、1954年に関西在住の若手作家を中心に結成され、姿を現した。前衛にとっては萌芽の時代で、その時代、まだパフォーマンスやインスタレーションといった表現が美術作品として評価されるには、早すぎる時代だった。
ヨーロッパではフルクサスですらがまだ産声をあげていない、まさに前衛前夜の時代なのだ。

指導的な役割を果たした吉原治良の元に若手の前衛芸術家たちが集まり、切磋琢磨しながら、「具体」は、世界に通用する前衛芸術家集団になっていく。
吉原を筆頭に、嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、吉原通雄、上前智祐、吉田稔郎、東貞美など。その後、ヨシダミノル、今中クミ子、向井修二、松谷武判、前川強、堀尾貞治ら、新世代が合流していく。

結成直後には、梅田のサンケイホールで舞台発表を行なっている。
1962年には、本拠地「グタイピナコテカ(具体美術館)」を中之島に開設し、会員たちの絵画の個展が開催されていく。
梅田は阪急東通商店街の路地裏のジャズ喫茶「チェック」の内装を向井修二が手がけたことから、当時、安藤忠雄などのアンテナの高い連中が大挙して押しよせたのは、1966年のことだ。

自由奔放で、前代未聞で、既成の定型を持たない彼らの表現は、彼らが行なったパフォーマンスやインスタレーションは、もしかしたら、今でも、見る人の頭のなかに「?」を浮かび上がらせたり、爆笑を誘ったり、心や肌をざわつかせたりするかもしれない。少なくとも僕は、初めて彼らのコトを紹介する本を見たとき、爆笑につぐ爆笑の連続だった。

紙を張った衝立をドミノ状に並べ、向こうからダダダダーって走ってきて、紙をぶち破る!ってパフォーマンス。
そんなのばっかりだ。

そんな、前衛、反芸術集団から、「具体」は、抽象絵画やキネティックな作品を生み出していく。
後期「具体」、輝きを失っていったように僕には思えるのだけれども、最後の花火は、大阪万博の舞台だったのではないか、と、彼らの年表を眺めていて思う。

1970年の大阪万博の、お祭り広場と岡本太郎の太陽の塔の出現は、日本の現代美術にとってもひとつの画期だった。
磯崎新設計の大屋根をぶち破って、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」とする岡本太郎。一方で、「牛乳瓶のお化け」、「日本の恥辱」と罵声を浴びせる、磯崎新を象徴とする当時の知識人。
今も圧倒的な存在感を放ちながらそびえ立つ太陽の塔を見るにつけ、大阪万博は磯崎新の最初の挫折だったのだと思うけれども、その磯崎新に「あの広場で暴れろ」とアジられた「具体」もまた、ここでのパフォーマンスは、残り火の最後の輝きだったように思える。白髪一雄の空中ブランコ群が実現していたら、また違った展開があったのかもしれないけれども、実際にはそれは実現せず、呵々大笑の白昼夢は出現しなかった。

「具体」は、1972年、吉原治良の死によって解散する。

「具体」は、50年代から70年代にかけて、いくつかの局面を経たけれども、その初期に持ち得ていた実験性は今も色褪せていないどころか、近年、現代芸術のさまざまな分野の先駆者として、再評価されつつある。
というよりも、再評価されなければならない。

なぜなら、この時代こそ、「具体」こそ、大阪の、キタの芸術が、世界と直結し、同時代性を有し、サイコーにとんがっていたのだから。

「具体」よ、再び!

具体

『具体 Gコレクションより』展 図録より 鷲見康夫

具体

『具体 Gコレクションより』展 図録より 白髪一雄

具体

『具体 Gコレクションより』展 図録より 堀尾貞治

具体

『具体 Gコレクションより』展 図録より 白髪一雄

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