西梅田キャンドルナイト

西梅田キャンドルナイト

昨日、西梅田でキャンドルナイトやってて、ちらと覗いてきました。
来週の12/10は茶屋町で。
毎年、夏と冬にやってますな。今年で10年目やそうです。たぶん、全部、見てることは見てます。
谷崎の「陰影礼賛」は結構重要なことが書いてある本で、光は影があって初めて生きるし、影は光があって初めて生まれるもので、どちらか一方だけでは成立しない、なんてことが書いてあります。
たとえば、ホームレスをまちから排除するのは結構なことだけれども、そうやって異物をすべて排除してデオドラントされた空間って、一歩間違えればディストピアだよ、と、翻訳することもできます。
僕もあなたも、いつ、ホームレス側、駆逐される側にまわるかわからんのだしね。
1,000,000人のキャンドルナイトは、10年前の当初、「電気を消して、スローな夜を。」を呼びかけた市民運動としてはじまりました。
LEDや蛍光灯、ネオンサインの明るすぎる光、影なき光ではなく、影を見、影を見ることで光を見よう、その光と影が写す自分の心を見つめよう、という動きでした。
大げさに言うならば、日本に古代から棲まう八百万の神、自然は、僕たちに恵みを与えるのみならず、厄災ももたらす。そういう、相反する二面性を持っているという、日本人の自然観を再び呼び起こすものですらあった、と、僕は思っています。
そのキャンドルナイトも、時を経て、この4、5年、影はどこへ行ったの?と、言いたくなるほど、光、光、光で埋め尽くされたイベントになってしまったように、僕は思うのです。
光の乱痴気騒ぎ。光の大安売り。
いつの間にか、集客施策の一環、賑わい創出の一環になってしまったな。
集客も賑わいも、本質的には影を消すことだど考えると、当初のスローガンとは真逆のコンセプトのもとに実施されているのが、昨今のキャンドルナイト。
ところでキャンドルナイトのはじまりのはじまりは、2001年に、アメリカで当時大統領だったブッシュによって「1ヶ月に1基ずつ原子力発電所を建設する」との政策が発表されたことを受けて、それに反対したカナダの人たちが自主停電運動をはじめたことに端を発する、一種のデモです。
モノ言わぬ人たち、サイレント・マジョリティの、楽しくもお手軽な、「抵抗運動」でした。
そのことが久しぶりに思い出されたのが、3.11東日本大震災のときでした。
計画停電、節電、あらためて問われた原発の有無など、エネルギーに関する無数の課題が眼前に突きつけられ、キャンドルナイトがおこなってきた「電気を消して、スローな夜を。」の意味をあらためて思い起こす機会となりました。
震災から1年後の2012年3月11日には、世界中で、キャンドルナイトを呼びかける動きがありました。本来的な意味での、足元を見つめなおし、考えるきっかけとなる時間をつくる動きです。
でもそれも、喉元を過ぎ、熱さは忘れ去られたな。
またしても、光しかない、のっぺりとした、煌々とした夜、人々の声で風の音すら聞こえない騒がしい夜でしかないキャンドルナイトが、そこにはありました。
やめればいいのに。
ここ数年は、そんな感想しかありません。
そして、事務局は、ここでひとつの区切りをつける決断をされたようです。
次のステージへ向かう。そう決めたようです。
その決断を、僕は支持します。
今日、関西原発賠償訴訟の第2回公判が、大阪地裁で行われいます。
そのことも併せて、いろんなことを考えています。
電気を消して。

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