1.17、20年目の夜

東遊園地

12月、長田の復興住宅に住むオバァたちと神戸ルミナリエを見に行っていました。
毎年、そうしてます。そのあたりから、僕の心は、少しずつ「震災」に染まっていきます。
なんだかんだ言って、オジィやオバァたちが仮設住宅に住んでいるあいだは、最高でした。
壁ひとつ隔てただけの仮設住宅は、そこに住むオジィやオバァたちを家族のようにしてしまいます。その絆が、彼や彼女たちを生きながらえさせたと言ってもいいかもしれない。
復興住宅は、そういう絆を、ことごとく破壊してしまいました。
復興住宅に移っていったオジィやオバァたち。どれほどの彼らや彼女らが、孤独のうちに亡くなっていったことか。孤独ゆえに、亡くなっていったことか。
もう、以前のように長田を頻繁に訪れることはなくなったけれども、それでも、この時期、同窓会のようにして、オジィやオバァたちと、顔をクシャクシャにして再会します。
また今年も、1月17日がやって来ました。
もう、20年になります。このときに生まれたお子らは、成人式を迎えました。
オジィやオバァたちも、僕も、年をとるわけです。
20年まえの1995年の1月17日、朝5時46分に、ドーンという、地の底から巨大で不条理ななにかが突き上げてくる衝撃があって、大阪から神戸の一帯は、グチャグチャにされたのでした。
その日は、僕の誕生日でね。
でも、この日を素直に誕生日だと思うことは、もう、ないですね。
当時、僕は、北摂のベッドタウンである豊中に住んでいて、建物の倒壊こそなかったけれども、家のなかはグッチャグチャ、皿やらビンやらの大半が割れ、CDは散乱し、CDのプラケースは割れまくり、2台あったテレビの1台がひっくり返ってブラウン管が割れ、食卓のテーブルは部屋の端まで吹っ飛び、エアコンの室外機がぶっ飛んで壊れました。
普通の地震とはまったく違っていて、ドーン!と、下から突き上げるような衝撃だったので、最初は、爆弾かと思ったもんです。
南米のペルーに住んでいたときは、過激派の連中がよく爆弾を爆発させていて、そんときの衝撃とよく似ていたのですね。でももちろんテロなんて日本ではそうそうあるもんじゃないから(相前後してオウム真理教がやらかしてくれたことも、個人的には澱のように、心の底をずっしりと覆っています)、慌ててテレビをつけたら、神戸が瓦礫の山です。
あまりの出来事で、部屋中が散乱して足の踏み場もない状態で、片付けなきゃいけないのはわかっているんだけれども、しばらくは、なーんもできなかったです。そのあとも余震が怖くてね、そっから数ヶ月はエレベータに乗れなかったほどで。図太さにかけてはよっぽどの自信はあるけれども、それでも、何ヶ月も、エレベータには怖くて乗れませんでした。エレベータに乗ってるときに地震が来たらと思うと、怖くてね。PSTDって言葉を耳にするようになったのはこの時期からだと思うけれども、PSTDってこういうことか、と、知ったもんです。それでも、僕のなんて、引っ掻き傷みたいなもんだけれども。
建物の倒壊もなく、ライフラインもすべて通じていたので、翌日だったか翌々日だったかには、神戸に向けて走ってました。
幸いにして僕の知り合いはほとんどが無事だったのだけれども、神戸には、当時の相方の知り合いの外国人がたくさんいて、彼らや彼女らが、かなり深刻な被害に遭っていて、迎えにいこう!ってことになって。
電話がなかなか通じなくて、でも国際電話がわりあいと通じやすかったので、香港の知り合いをベースにして、そこに伝言をあずけるかたちで連絡とってました。まだ、ネットもメールもなかった時代のことです。
高速道路が波打って倒壊していて、あんな風景、あとにも先にも見たことがないです。
垂直に建っているはずのものが大きく歪んで建っているのを見ると、平衡感覚がおかしくなりますね。三半規管って、視覚からの情報があって初めて機能するんだな、ということを、そのときに実感しました。
迎えにいった外国人は10人以上で、皆、家をなくしてるから、僕の家に寝泊まりしてました。
最大で、11人が僕の家で寝泊まりしてました。広い家じゃないから、もちろん雑魚寝で、それこそ足の踏み場もないくらいだったけれども、なんだか楽しかったですね。
いろんな国の言葉が飛び交ってね。公用語を決めよう!ってなったんだけれども、英語とスペイン語とアラビア語以上に絞りようがなくて、誰かがスペイン語を英語に翻訳して、その英語をまた誰かがアラビア語に翻訳して伝えてって、伝言ゲームみたいになってました。話がね、よく食い違うんだよ(笑)今日の晩ゴハン当番は○○!って単純な話ですら、最終的には食い違う始末で(笑)でも、合宿生活みたいで、楽しかったです。
知り合いの外国人も、知り合いの知り合いの外国人も、何人もピストン輸送して、そうしているなかで、僕は、長田のオバァやオジィ連中と知り合うことになったのでした。
長田は、在日コリアンやらウチナンチューやら、いわゆる故郷を離れた人たちが住んでいる土地です。それも、住んでいたというよりは、そこに押し込められた、そこにしか住むことができなかった、という土地です。
水はけが悪くて、ようするに、下層の土地。
大規模災害というのは、皆が一様に被害を受けているように見えて、じつは、如実に格差が出るものでも、ありますね。
持たざる人たち、ギリギリの生活を余儀なくされてきた人たちが、ひとたび災害に遭うと、悲惨です。欠けてしまったものを、自力で埋め合わせる余力は、もう、どこにも残っていません。
復興に尽力した市民派の小田実は、彼らは政府によって捨てられた棄民だ!と、看破しました。
黒田門下の大谷昭宏は、最初の5分は天災だったかもしれないが、それ以降は人災だ!と、咆哮しました。
その状況に、一番怒りを覚えていたのは、当時の僕の相方でした。
彼女は、格差があたりまえにあるペルーで生まれ育ってますから、持てる者が持たざる人と手を繋ぐのはあたりまえの環境を生きてきました。
当時、ボランティアの意識が国中に芽生えはじめていたとはいえ、彼女の目から見て、長田のオバァやオジィたちの置かれた状況は、怒り以外のなにものでもなかったのですね。
看護婦の資格を持っており、もともとボランティア精神も旺盛だった彼女に引っぱられるかたちで、僕も、長田によく行きました。
それから20年が経って、今でもまだまったくおなじことを思うけれども、長田のオバァたちオジィたちが生き延びるための最大の障害になっていることは、笑い、です。
身寄りがないので、そもそもが孤独です。そして、テレビは、長田のオバァやオジィのような年寄りには、笑いを提供してくれないのですね。
一日に、一度も会話がない。言葉を発することもない。あはは、と、笑うことがない。
これはね、やっぱり、生きる気力を萎えさせます。
そこに、今年は復興住宅の家賃補助が打ち切られるという現実がのしかかってきます。
孤独死は今もあるし、死ねばニュースになるけれども、死なないまでも、会話がない、言葉を発することがない、あははと笑うことがない、という生活は、死んでいるも同然です。泳がない魚、泣かない赤ん坊です。でも、その生活のさまは、なかなか外には伝わっていかない。
そのことの重要性を、僕は、当時も、そして今も、ずーっと痛感します。だからこそ、せめて、一緒にあははと笑おう、そう思って、僕は、長田に遊びにいきます。
ボランティアという言葉の在りようは自分なりに持っているつもりだけれども、僕は、ただ、きっぱりと遊びにいってるだけです。
当時、相方が、よく言ってました。
キリスト教には慈悲の精神があるけれども、なにも慈悲の精神でボランティアをやってるんじゃない。看護婦をやってきたんじゃない。そうではなくて、自分が必要とされる場所に身を置いて、それこそ、自分の働き如何で、誰かの生殺与奪を左右しかねないような、自分が強烈に必要とされる場所に身を置いていると、生きている実感を、これ以上ないくらいに感じることができる、と。
必要とされる場所に自分の身を置くことで、歓びを実感することができる。だから、私は、誰かのお世話をしているようでいて、じつは、その人たちによって生かされているんだ、と。
これは、キリスト教が掲げる慈悲の精神とも、仏教で観音菩薩が有している慈悲の心とも、景色が少し違うように思います。
僕も、長田のオバァやオジィたちのところに遊びにいくようになって、昨日のことのようではあるけれども、そのじつ、ずいぶんと長い時間が経って、ぼんやりとそのことがわかってきました。
自分が必要とされる場所にいるとき、引けば手繰り寄せられるようにそれを感じることのできる場所にいるとき、生かされているんだな、という感覚を、質量を伴った手応えとして持つことができます。
その相方も、15年前に、アフリカのニジェールという国へ看護婦のボランティアに行ったきり、戻ってきませんでした。
内戦で欠けてしまった人々の身体と心に、なにがしかを埋める作業をしに、彼女はニジェールに行ったのでした。
彼女が属していたボランティア団体は、災害地や紛争地にいち早く到着して、医療面からの適正なサポートを、政府や思想や社会体制によらずに、行なってきたところです。
そして、彼女が赴いた現場で、ゲリラ戦が起こりました。
そのゲリラ戦で亡くなったのは、数十人とも百人以上とも言われています。
今もって、正確な数字はわかっていません。
さて、これはずっとあとになって気がついたことなのですが、震災の最大の悲しみは、名前が残らないことです。
大量死の最大の悲劇は、亡くなった人の名前がない、ということです。
どこそこで、誰それが、これこれの理由で亡くなりました。享年○○才。
とは、いかない。
そうでなはなくて、震災のときは、こうでした。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
言うまでもないことだけれど、人にはそれぞれ固有の生があって、だからこそ、固有の死があるはずです。名前は、それを象徴しています。名前のある死があって初めて、つまり、弔いがあって、その人は、それまでの時間を生きて存在したことになります。
それが、ない。
いろんな人生があるけれども、どんなにしんどくても、そして最期がどれだけあっけない死であったとしても、誰かの許に知らされる死であったなら、そこには、固有の生があったことが確認されます。
死が記録され、人々の記憶のなかに残ってこその、生です。墓参りは、死んだ人のために行くのではなくて、生き残った者が、なにがしかの思いを抱えて、思いに突き動かされて、行くものです。
死が知らされない、ということは、一周忌も三回忌も七回忌も十三回忌も五十回忌もなく、なにもなく、思い出すきっかけもなく、やがて忘れ去られます。その人が生きたことそのものが、人々の記憶から忘れ去られます。いや、忘れ去られる以前に、知らされない。誰の心にも、痕跡を留めていない。
弔い、死を知らしめることによって初めて、その人の生が完結し、完結することによって、その人の生が、人々の記憶に残り、その人は、この世に生きたことになります。
それが、大量死を生む場所では、ない。
その人が、生きたことになっていない。
これ以上の悲劇は、ないです。
自分が生きたことが、誰にも認められない。想像したら、ぞっとします。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
ニュースでときどき耳にするフレーズだけど、死者に名前がないということは、そういうことなのですね。
幸いにして、僕は、相方の亡骸を確認し、僕の手許に取り戻すことができました。
彼女の死を無名の死にすることなく、名前のある、固有の死とすることができました。
震災のとき、相方がニジェールで亡くなったとき、その後、僕は、アメリカ軍によるイラクへの侵略戦争を取材しにいったのだけれども、そのときにね、やはり、無名の死ということを、つくづくと考えました。
相方を殺してしまった戦争というものの正体を少しでもいいから知りたいと思って、僕は、さまざまな手を使って、戦時下のイラクへ行きました。取材のかたちをとったのは、そうしなければ入国が叶わなかったからです。それとて、取材という、仕事の体裁を整えるのに、ずいぶんと苦労もしました。
そして、イラクにもまた、無名の死がたくさんありました。
あの戦争で亡くなったのは、イラク人だけではなく、アメリカ兵もです。
しかし、亡くなったアメリカ兵は、亡骸を回収され、それぞれが棺に納められ、星条旗に包まれ、家族の許に戻され、○月○日○時○分、○○にて彼は自由と民主主義のために勇敢に戦ったけれども機関銃の一斉掃射に遭い名誉の戦死を遂げた、と、固有の死を与えられます。彼や彼女の死を知らしめることで、彼や彼女の生が、たしかに生きたことが、そこで確認されます。
ほかならぬ、メディアが実名を挙げて報道しました。映画にすら、なりました。
一方で、イラク人はどうだったか。イラク兵やイラクの民や草の死を、メディアは、個別に実名で報道したのか? してないですね。
イラクとアメリカとでは、国力も戦力も圧倒的な開きがあるのは承知しているけれども、アメリカによって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺されたアメリカ人のために費やされてきたそれに比べ、情けなくなるほど少ない。
アメリカ人の誰かの死を悲しみ、憤り、生き残った人々を慈しみ、戦争や厄災そのものを憎しみとする言葉は、何万何億と紡がれてきました。でも、イラク兵やイラクの民草の死を悲しみ、慈しみ、憤ったりした言葉は、世界中で、どれほど紡がれたのか。
この彼我の差は、呆れるほど偏っていて、ほとんど、不当と呼んでいいほどです。
文学やジャーナリズムは、あまつさえほぼすべての表現は、人の死は平等だと説くのだけれども、嘘ですね。ここには、言説や表現の救いがたい非対称性が、あります。ほかならぬ、文学やジャーナリズムこそが、多くの表現こそが、人の死を平等に扱いません。国力や戦力の差というものは、とりもなおさず、人命の単価の相違、しかも、ケタ違いの価格差を生んでいるのだということに、文学やジャーナリズムは、表現は、牧歌的であり続けています。無意識の、無自覚の、無作為の、無知の罪、で、すませていいはずがない。
僕は、放った矢が自身に返ってくることを承知したうえで、なお、そう断言します。匕首を、自身の咽喉に突きつけながら、なお、そう断言します。
震災をきっかけとして、僕は、大量死というものについて、ずっと考えてきました。
あれから20年。
毎年、神戸の成人式では震災のことが語られ、1月17日が近づくにつれ、あちらこちらで追悼のイベントが開催されます。
特に今年は20年の節目ということで、イベントやニュースを目にする機会がとても多いです。
あのときの体験を血とし肉とし、今も伝え続けている人が、たくさんいます。
それはきっと、亡くなっていった無名の死、固有の死を与えられなかった匿名の死に、名前を取り戻し、そうすることで固有の生を、その人がたしかにこの世に生きたのだという証を取り戻す作業なのだと、僕は思っています。
民や草だけではないです。神戸市や兵庫県は、行政府にしては珍しく、固有の物語を収集し、亡くなられた方々の名を残そうと取り組んでいます。ひとりも漏らさず、そうしようとしています。日頃、行政府に対しては文句しか言わない僕だけれども、このことについては、頭が下がります。
長田のオバァやオジィたちは、それこそ、櫛の歯が欠けるように、ひとり、ひとり、亡くなっていくのだけれども、この人たちの死を無名のものにしてはいけないなあ、と、この時期、毎年思います。
長田には復興住宅がまだあって、そこから抜け出すことなどどう逆立ちしても不可能な生活を送るしかない境遇のオジィやオバァがまだまだたくさんいて、その人たちは僕の大切な友人でもあって、僕は彼ら彼女らに生かされているという思いもあって、思いはさまざまに交錯していきます。
ミカンを持っていけば、どこから仕入れたのか知らないけれども、帰りにメロンを持たせてくれるような塩梅で、ほんと、なにしに行ってるのかわからん始末ですが、そういうオバァやオジィたちに、まちがいなく、僕は、生かされています。そういう場所にいることに、僕は、まちがいなく、歓びを見いだせる人間です。
亡くなったオバァもオジィも、生き残ったオバァもオジィも、皆、たくましいですね。
「死んだら全部終わりやな」
と僕が言ったら、
「死んで全部終わってくれんことには、借金がなくならんやんかぁ!」
などと返してきます(笑)
あの人たちは、たくましいです。
どんだけ悲惨な状況に陥っても、その状況のなかでなんとかかんとか楽しむ術というか、図太さみたいなものを、持ってます。
沖縄の本島の出のオバァが島の出のオバァをケチョンケチョンにけなし、済州島の出のオバァと半島の北の出のオバァはお互いがお互いをなじりあってます。クサいだとかキタナいだとか(笑)
差別と嫉妬が大好きで、無知で無教養で、粗野で卑近で、どうしようもないオバァたちだけれども、生命力は旺盛で、数知れずあっただろういわれなき難事をかつがつしのいできた、生きることに天賦の才を持っているとしか思えんようなオバァたちです。そんなオバァたちだけれども、多くは、孤独のうちに亡くなっていきます。
その現場に接すると、辛いだとか悲しいだとかいう以前に、口を噤んでしまいます。
そんなことをしょっちゅう考えているわけではないけれども、この時期はね、どうしても、そういうことを思います。
あのとき、神戸で出会ったりすれ違った人たちのことやら、相方のことやら、我が家で団体生活を送った外国人たちのことやら、イラクのことやら、長田のオバァやオジィたちのことやら…、いろんなことを、思い出しますね。
もう、20年かぁ。
20年という時間は、けして短い時間ではなく、それぞれがそれぞれの固有の生を歩き続けているのだとしても、この時期だけはね、神戸の人たちは皆、おなじようなことを思うんだろうなあ。
人というのは、つくづく、ひとりでは生きていないもんですね。
今日また、神戸中にろうそくの灯がともります。
僕の誕生日はね、今では、神戸中で、ろうそくの火が灯る日となっているのですよ(笑)
5年前に「その街のこども」がNHK大阪によって制作され、TVで放映されたものが燎原の火のような反響のひろがりを見せ、映画になりました。
それ以来、毎年、僕は、この映画をどこかで見ています。
映画館で、あるいは、TVで。
この作品のいいところは、
こどものころに体験した震災というものにあらためて向き合おうとする、現在進行形の若者にスポットが当たっていたことです。
傷が癒えていないとか、そういうことじゃない。傷と共存し、なおかつ前に向いていこうとする、その格闘の姿です。淡々とではあるけれども、その描かれかたが、とてもよかった。
夜の三宮と御影を往復するこのロードムービーは、言うまでもなく、夜の神戸の町並みをそのまんま映し出してます。
夜の神戸。
震災からこっち、神戸といえば、夜のイメージしかないですね。
この映画を見てからこっち、僕は、この日の夜に、大阪から三宮に向けて歩くようになったのでした。
かつての相方と、知り合いの人たちを迎えに行ったとき、昼すぎに大阪を出たのに、神戸に着いたのは真っ暗な夜でした。
そこで知り合った長田の人たち、ウチナンチューや在日コリアンの人たちと仮設を掃除したり家具を運び込んだりしたのも、どういうわけか夜だった。
ソウルフラワーの別働隊、モノノケサミットが長田神社で演奏会をやったのも、篝火をたいた夜でした。
月が出ていたり、雪が舞っていたり…。
そのあと、オジィやオバァを連れてルミナリエに行くようになったけれども、これももちろん、夜。
梅田から、ゆるゆると歩いて、三宮まで約8時間かかります。
運動不足の足はたちまち棒のようになり、足の裏にはいくつもの水ぶくれができます。
でもその時間は、僕になにかを思い出させてくれるし、それは刻んでおきたいものでもあるのです。
同世代の若い連中のあいだで、その狭い世界で、エラそうな跳ねっ返りのガキが、どういうわけかオジィやオバァと触れ合うようになって、共通言語を強制的に変更させられて、触れ合うってことはどういうようなことなのかというような、根源的なことを考えざるを得ない場面が、たくさんありました。
見た世界、聴いた音楽、読んだ本…、憧れやら共感やらで影響を強く受けてきて自分自身のアイデンティティをつくってきたのが、そこがはっきりとした区切りではないけれども、震災以降は、邂逅やわかれがそのままダイレクトに自分を構成するものになっていったように思います。
あのあたりからこっち、頭で考えるということは、あんまりしなくなったなあ。
出会い、わかれ、邂逅と離散を繰り返していくなかで、そのことで自分が勝手に変わっていく。その変化に身を任せる。なにをどうしたところで、行きたいところにしか行かないのだから、縁を大切にして、その縁によって自分が勝手に変化していけばそれでいい、と、僕は思うようになりました。
そうやって、僕は、いろんな邂逅を繰り返してきました。
今年もまた、邂逅を繰り返していく。邂逅のなかで、ドキドキしたり、戸惑ったり、破顔一笑になったり、浮かれたり調子に乗ったり、泣いたり怒ったり…、ときどきに表出する現象を大切にしながら、今年もまた、いろんなものを噛みしめて、歩いていました。
喪失と再生を繰り返していく。
そうでしかありようのない、固有の物語を、僕もまた生きています。
誕生日のお祝いの言葉をくださったみなさん、歩いている僕を励ましてくれたみなさん、ありがとうございました。
この1年もよろしく!

flickr
阪神大震災20年1.17の夜(2015.1.17)

東遊園地

神戸市中央区加納町6-4-1

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