大正年間の大融寺

『大阪百年』(昭和43年 毎日新聞社刊 500円)が古本屋さんで100円で売られていたので、即買い。つか、探していた本が、あっさり見つかる。。

大融寺の記述が、なかなかおもろい。
今、八角堂が建ってるあたり、大正年間当時はごちゃごちゃしていて、なかなか興味深いです。

ちょっとだけ抜き出してみます。

『金沢タネ店』(東門のすぐ北)
安永4年(1775年)からの暖簾を誇り、「大融寺のタネ」で売った。当代は7代目金沢茂七さんで、冬は全日本スキー連盟技術指導員という余儀のほうが忙しかった。母親のあささんは、この界わい随一の美人と言われた。

『大融亭』(護摩堂の北、境内の外?)
浪花節の小屋。

『オットセイの店』(東門の真正面)
城戸漢方薬店で、店の前に大きなオットセイの剥製がでんと座っていた。売り物の樺太直送のオットセイの塩漬けは、ほんの一切れ味噌汁に浮かべただけで、からだがポカポカ。主人は昼間っから酒を飲んで、通りかかる小学生たちをからかうのが趣味だった。

『花藤』(境内の南東角、源融公旧蹟の碑の内側?)
花屋。このあたりのエエシ(金持ち)で、しっかりもののおかみさんが朝からタスキがけで花を束ねていた。

『オナラの本家』(南門の西)
南門の西にあった焼き芋屋。ズバリの屋号が人気を呼んで大繁盛。

この地図は、大阪工業会専務理事の野田新一さんの記憶により復元したものらしい。野田さん大融寺の近所で生まれ、小さい頃は境内でよく野球をした。ファウルボールをお墓の屋根に飛ばしては叱られていた。大阪工業会というのは、大阪商工会議所の前身。

口伝は描写が生き生きとするからええな。

この記述と境内図は大正年間のものなので、このころは、毎月21日のお大師まいり「お大師っさんの日」が盛んやった時期とちゃいますかね。大融寺さんを起点に、寺町筋を順に詣で、下寺町経由で四天王寺さんまで、お供えのコメを持って巡る巡礼です。

アタリをつけていたら、別の箇所に、「お大師っさんの日」のお供えのコメについての記述が出てきます。

孫の手を引いたおじいさん、おばあさんは右手に数珠、左手に黄色い袋を持ち、口々に御詠歌を歌いながら諸堂を巡る。賽銭箱の前に来ると、黄色い袋から小さな缶を取り出し、パッパッと振る。缶の穴から5、6粒のコメがパラパラ。

人の波が引くと、25人の寺衆が総出で諸堂の賽銭箱をひっくり返し、ふるいにかけて、銅貨、大豆、小豆、麦、賽銭米をより分ける「米揚げ」をやるんですと。

空襲で天満寺町が焼けるまで、「お大師っさんの日」の風習は続いたみたい。
大融寺の周辺にはおもろい店がたくさんあったことがこの本でわかるんやけど、「お大師っさんの日」には、これらの店もたいそう賑わったんでしょうな。

普段歩いてる見知った場所を、昔の古本でなぞるのは、おもろいです。

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