『まともがゆれる – 常識をやめる「スウィング」の実験』

障害福祉NPO法人「スウィング」の代表木ノ戸昌幸さんの著書『まともがゆれる – 常識をやめる「スウィング」の実験』。
数年前、京都の大好きなライブハウス「アンデパンダン」の隣で、妙な個展がおこなわれていて、覗いてみると、これヤバいわ!となって、そんときにその個展の主催者である「スウィング」に接触して、それ以来、この人たちの活動にずっと釘付けです、僕。
そもそも、「ギリギリアウトを狙う!」というスローガンが素敵すぎる。
ギリギリを狙って限界をひろげるのは、よくある方法だ。でもギリギリアウトを狙ったら、枠の外に行っちゃうじゃないか。アウトだ。その、アウトを狙いにいくセンスが、いい。ハナから、上手くいこうなんて思っていないところがいい。
「スウィング」は、障害者総合支援法という法律に則った福祉施設で、毎日20人くらいの障害者がやって来て、絵を描いたり、詩を書いたり、戦隊ヒーローに扮して清掃活動をおこなったりと、京都は上賀茂を拠点にいろんなことをやっているNPO法人です。
「生きづらさ」は僕にもあったりなかったりする。でも、社会を断罪してもしょーがないし、人ひとりが生きるということにセオリーや方法論なんてないので、固定化された「まとも」を見つめ直したり揺らしたりずらしたりして、このロクデモナイ社会に傷つきとまどう心優しき人たちの「生きづらさ」をゆるめられたらいいな、というのが、この本にはいっぱい詰まっている。
清掃活動の「ゴミコロリ」は素敵だ。
紆余曲折あって、ダサい戦隊モノのコスチュームに全身を包んだ5、6人が、ゴミ拾いの一斉清掃活動するようになった。最初はすれ違いざまに子どもに泣かれたり、通報されたりしたが(警察に通報されてやんの!笑)、今では、戦隊服のままでコンビニに入って買いものもするし、まちの人気者にすらなってしまっており、いつの間にか、「お馴染みのローカルヒーロー」になってしまっている。おかげで、一銭も儲からないゴミ拾いに、誰も嫌がらないどころか、誰もがその日を楽しみに参加するという…。
境界線上の「京都人力交通案内」もいい。
京都駅でただただ善意でバス案内をするメンバーがいる。駅の警備員さんたちは、このルールになく、想定していなかった事態にどう対処すべきかとオロオロする。誰も困ってないのに。むしろ親切に道案内をしているのに。管理者が勝手に困ってる。
万が一なにかあったら、が先立つのが社会で、僕が所属する団体が梅田でおこなっている道案内にも同様の課題がある。これが、ここでは、「問題になる前から問題視するのはよくないのではないか」と返し、管理者側と渡り合い、バス案内を続けている。なぜそんなに京都のバス事情に詳しいのかまで掘り下げると、口があんぐりとなる事情があって、それもまたおもろい。
芸術創作活動「オレたちひょうげん族」もおもろい。
ヒマにあかして、絵や詩を表現する。この活動は、市場ができるまでに成長した。
書き出すとキリがない。
僕が数年前に出会った個展は、「同居する母親の年金に手をつけてキャバクラ通いを繰り返す男が自責の念に囚われ引きこもる」を繰り返すという、悪循環の物語だった。
複数の偽名を使い、職業を詐称し、浪費癖がやめられず、タイトルの通りの愚行を繰り返す男の物語でね。
腫れものに触るように扱われてきた彼が、すべてをオープンにすることで、少し前に進む。弱いままだし、相変わらず「生きづらさ」を抱えている彼だけど、全部をオープンにすることで、少しラクになってる。
このループが、断罪されていないのだ。オープンにしてラクになったらどう?と、解決策の提案があるだけなのだ。
「スウィング」の活動には、「こうあらねばならない」という、べき論がまったくない。べき論は窮屈だと否定する言論は世に溢れているけれども、かといって、すべてを許していたら、団体運営も社会活動も成り立たない。でも、ここまでべき論から逃げまくっている人たちは、見たことがないかもしれない。弱さを武器に、世界と闘っているのかとすら思えてくる。
「スウィング」は、ダメさを肯定するため、この人たちの「べき」を守るため、世間の側の「まとも」を揺らしてくる。
考えれてみれば、むかし、ロックがそうだったな。
ロックって、ダメなやつのためのダメな世界を肯定する音楽だったから。
「スウィング」って、ロックやわ。

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