鹿児島にあるらしい秀頼公の墓

大坂夏の陣で自刃した豊臣秀頼公がじつは生き延びて南九州で生を全うしたとの説があると、前回の大阪まち歩き大学で、陸奥さんが言うのですよ。

大阪城公園の南にある三光神社には「真田の抜け穴」なるものが存在し、大坂の陣の際に真田幸村がつくったとも、攻め手である徳川方がつくったとも言われており、はっきりしたことはわかっていません。入り口から覗くかぎりでは、抜け穴はすぐに行き止まりになっていて、抜けていない。まあ、伝説の類だとは思うのだけど、ここらで陸奥さんがややこしいことを言う。

抜け穴はともかく、大坂夏の陣で自刃したはずの豊臣秀頼公が、じつは生き延びて、はるか南の薩摩へ逃れたという説があり、薩摩にはちゃーんと墓がある、と。

折りしも、僕が鹿児島へ赴く前日に、そんなことを言う。

いやいやいや、源義経は大陸に渡ってチンギス・ハーンになったとか、西郷隆盛は西南戦争を生き延びてロシアへ渡ったとか、非業の死を遂げた英雄に、この手の異界転生話は付きもんです。秀頼公も、その類では?と、進言するとですな。

いやいやいや、南九州に秀頼公のものとされる墓がありましてね…、と。さらに、鹿児島に行くなら、見てこい!と(笑)

いやいやいや、鹿児島って広いのよ。広いし、そんな与太話に付き合っている暇など…(以下略)
だいたいあなた、2回ほど前のまち歩きでは、大阪城公園の一角にある「豊臣秀頼と淀殿ら自刃の地」碑を紹介していたではないですか(笑)

という下りがあってですな、指宿で乗ったタクシーの運ちゃんがやたら歴史に詳しいおっさんだったので、その話を振ってみたわけです。すると、、

お墓、ありますよ。頴娃(えい)町の雪丸というところに、墓に通じる坂道がありまして、私らは親から、墓へは近づかないようにと言われてきましたね。
ですと。

墓には丸い小石がたくさん供えられているそうです。

結構険しい山道を歩いた先に秀頼公の墓とされる場所があるのだそうです。このあたりはお茶の栽培でも有名な場所で、秀頼公は、眼下に茶畑を眺めながら、ひっそりと眠っておられるのだとか。「雪丸」という地名も珍しいけれども、これこそ、秀頼に同行した真田幸村の幸村が訛った言葉というか、名残ですな。

ちなみにここらの茶畑は段々畑のようにはなっておらず、平地に平たく茶畑がつくられてます。日差しが強いので、斜面にする必要がないのですよ。

秀頼公の薩摩落ちの話は、大河ドラマ『真田丸』以降、格好のまちおこしの材料になっていて、標識から銘板からいろいろ整備されて、すっかり、ここで没した人になっているようです(笑)六文銭がモチーフのモニュメントもあるとか。

陸奥さん、よかったじゃないですか(笑)

薩摩はそのむかし、110もの城があって、それぞれに殿様がいたものだから、集落同士の交流はあまりなく、そのせいで、言葉が集落ごとに違っていたらしいです。
なので、この手の話も、あんまり外へは広がっていかず、逃げ延びるのには絶好の環境にあったのかも知れませんな。
※写真はネットからパクってきましたよ。なんせ行ってないからな(笑)
指宿では美しい開聞岳を眺めながら砂蒸し風呂に入っとりました。開聞岳はワシが撮影した写真。

鹿児島
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