鹿児島本

地方に行くと、必ず、地元の書店や大型書店の地元本コーナーを覗く。
地域情報誌や地元本には、その土地の民俗や歴史が詰まっているし、ローカルに根ざした情報はおもしろいのだ。
鹿児島本コーナーを覗くと、幕末から維新にかけて薩摩が日本の表舞台で活躍した時期のことを紹介する本が圧倒的に多い。中でも西郷人気はダントツ。
ご当地でのハイライトは薩英戦争。絵巻物がそこらじゅうにある。そして知覧を拠点とした太平洋戦争末期の特攻隊。
ほか、鹿児島弁関係の本も多かった。城が110あった関係で集落ごとに方言があるので、言葉関係の本も数多く出版されているようだ。
観光に関しては、坂本龍馬&お竜の新婚旅行カップルと西郷さんがナビゲーターとなって、ゆかりの〜、といった紹介本が多い。
神話関係の本も少しは見かけたが、パワースポットや聖地とセットになっているものが多くて、閉口した。聖地とは本来は足を踏み入るべからずの禁足地で、部外者が力を得るために訪れるような場所ではない。部外者が行けば、むしろ祟られる。どうして行きたがるのか。行かせたがるのか。。。
食の本も多い。有名な黒豚を筆頭に、一席に輝いた黒牛、宮崎にまでまたがる地鶏産業、カツオやきびなご、うなぎをはじめとする魚介、つき揚げ(さつま揚げ)、野菜(二毛作が盛ん)、生花産業(毎日墓参する風習があるので、花の消費量が日本一)などなど。生産物と食文化に関する本もまあまあの頻度で散見する。
離島関係の本も多い。奄美大島、屋久島、種子島についての本など。霧島や指宿など、本土を紹介する本よりも離島を紹介する本のほうが圧倒的に多く、ニーズや興味がどちらを向いているのかが、本棚にはっきりと出ている。

明治維新とその背景にある島津の武家文化について書かれたものが、質、量ともに群を抜いている。
ただ、そこらへんは大河ドラマで何度も見るし、個人的には食傷気味で、食指が動かない。
知りたいのはむしろ島津以前の鹿児島だが、そもそも、島津がどういう出自の一族で、いつから彼の地を牛耳っているのか、そんなことも僕は知らなかった。
知らなかったので、行く先々で人をつかまえて聞いてみると、島津一族は丹後にルーツを持つことがわかった。なんとなんと!畿内の人でしたか!

諸説あるようだが、鎌倉時代、源頼朝の側室である丹後局が住吉大社で忠久を産む。その忠久が、後年、日向、薩摩、大隅にまたがる近衛家が持つ日本最大の荘園を管理する下司職に任ぜられ、彼の地へ赴く。そのとき、島津を名乗った。ケンカが強かったのではなく、荘園経営能力が高く評価されてのことらしい。

そういうわけで、島津の鹿児島統治は鎌倉期にはじまるのだけれども、それ以前のことがよくわからない。僕が興味があるのは、むしろ、島津以前の、理屈が通じにくい土着の鹿児島文化なのだが、少なくとも、まちの書店レベルでは見当たらない。方言本を読み漁れば、鹿児島の土着文化について触れられているのかもしれない。けれどもまだ、そこまでは僕の気持ちも頭も追い付いてはいない。

というわけで、食指が動く本が見当たらないなかで、手に取ったのは、桜島の本。
今回、鹿児島県内のいくつかの土地に出向いたが、圧倒的におもしろかったのは桜島だった。山容の美しさもさることながら(見る場所、見る時間帯によって、桜島はまったく違う表情を見せる)、市街地とこれほど近距離にある活火山とともに暮らしている土地というのは、世界でも例がないほどなのだそうだ。そこがおもしろい。そのために育まれた生活の知恵が、たくさんある。

たとえば、鹿児島のテレビで見る天気予報では、桜島上空の風向きと風速が1時間や3時間単位で報じられる。地元の人たちは、これを見ながら、たとえばいつ洗濯物を干すのかを検討する。火山灰が洗濯物に付着するのを防ぐために、鹿児島の天気予報はこれがデフォルトになっているのだ。(TVのデータ放送にも、これらの情報がアップされている)
また、噴火後には、噴煙高度と風向きを知らせる速報メールが届く仕組みもある。
家に積もった灰は、住民自らが片付ける。自治体から配布される「克灰袋」(すごい名前!)というものがあって、この袋に灰を詰めて回収してもらう。車のフロントガラスに積もった灰は、ワイパーではなく毛ブラシで掃く。火山灰には細かな鉱物結晶が含まれているため、ワイパーだとフロントガラスに傷がつくのだ。
道路に蓄積した灰を取り除くためにロードスイーパーが走り、通行車両のスリップを防いでいるのも、鹿児島では日常の光景だ。
降り積もる火山灰は溶けずにその場に残ったままなので、その処理にひと手間かけなければならない。これが鹿児島の日常であり、活火山と共存するというということは、そういうことだ。

桜島で、NPO法人 桜島ミュージアムが発行する『みんなの桜島』を買った。
約2万9000年前、桜島出現以前に錦江湾で世界最大規模の噴火が起き、「姶良カルデラ」ができた。そこに海水が流れ込み、錦江湾の湾奥部ができた。そして約2万6000年前、姶良カルデラの南端で新たな噴火活動がはじまった。これが桜島の誕生。以降、現在までに17回の大噴火を繰り返している桜島の歴史が、まず、紹介されている。

桜島の溶岩層にも、植物が根付く。50年もすると苔が生え、草原が出現する。次に低木林ができ、クロマツなどの陽樹林ができ、最後にシイやブナなどの常緑広葉樹林が形成されて、極相林となる。そのすべての段階の植物相を、桜島では一度に見ることができる。

桜島の名前は、コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)に由来する。コノハナサクヤヒメは霧島に降り立ったニニギノミコト(邇邇芸命)の妻で、「コノハナ」は桜を指す。桜島にある月読神社はコノハナサクヤヒメを祀っており、この姫の名が島名に由来する説が有力らしい。でも、はっきりとはしていない。ニニギノミコトは、皇祖神アマテラス(天照大神)の孫。
桜島は、古代、「鹿児島」とも「向嶋」とも呼ばれており、「桜島」の名が定着するのは、時代がぐっと下って元禄年間のことだとか。「桜島」の名は、意外と新しいのである。
大阪では、「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」が有名で、「咲くやこの花」は桜ではなく梅なので、少々違和感があるのだが、コノハナサクヤヒメと咲くやこの花は、単純に語呂が似ているだけで、特に関係やつながりはないようだ。

びっくりしたのは、桜島には、今でも人が5000人以上が住んでおり、18の集落があるということ。人が住んでいるなんて考えたこともなかったが、桜島の暮らしは物心両面で豊かであり、そのむかしは、桜島に嫁に行くというと、うらやましがられたそうだ。

さまざまな場面での、人の営みが紹介されている。こうなると、僕の視線は、俄然強くなる。
防災対策として、桜島の小中学生は毎日ヘルメットをかぶって登下校する。噴火時の各避難港の位置と避難手順が記された「桜島噴火ハザードマップ」は毎年チマチマと改定され、全戸配布される。もちろん、避難訓練もある。島内各所には、退避壕と呼ばれるシェルターがあちこちに設置されている。

厄介ごとだけでなく、火山がもたらす恵みも多い。
火山がもたらす扇状地は水はけがよく、野菜がよく育つ。世界一小さく世界一たくさんの実をつける桜島小みかん、世界一大きい桜島大根も、この扇状地で生産される。

温泉も多い。島内だけで3ヶ所の温泉施設がある。掘れば温泉が出るし、温泉を掘ってマイ足湯をつくるワークショップまでおこなわれている。
眼前の錦江湾は深く、黒潮の恩恵を程よく受けるつくりになっており、豊かな漁場を形成している。珊瑚も生息しているのだとか。

かつて桜島では、各集落から和舟を出して島の周りを漕いで順位を競う島廻り競争がおこなわれていた。秋の彼岸には、村の名誉を賭けて挑む島を挙げての一大行事だったそうだ。船を漕ぐ男たちを応援する女たちの踊りも生まれ、集落ごとに異なる唄と踊りで競争を盛り上げたと言う。この行事も、今はおこなわれていない。大正噴火で桜島から流れ出た溶岩が大隅半島に到達し、瀬戸海峡は埋め尽くされ、桜島は大隅半島と陸続きになってしまい、舟で島を一周することができなくなってしまったからだ。以来、島廻り競争は廃れ、やがて女たちの唄や踊りも忘れられてしまった。
しかし近年、踊りの保存会が結成され、一度は消えかけた伝統の灯に再び明かりがついた。村中の家を何軒も訪ね、踊りを知る人を探し出したそうだ。

桜島には伝統が残っているだけでなく、一度は消えてしまった伝統を復活させたり、変容させたりしながらも、豊かな文化が今なお息づいているようである。
今回は、文字通り駆け足で桜島を走ったのだけれども、次回、機会があれば、まち歩き風に、あちこちの集落を訪ね歩いてみたい。この本は、そのときまた役に立つ。

鹿児島
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