大塩平八郎の足跡を辿る(1) 名与力時代

大塩平八郎

平八郎さんこと大塩平八郎は教科書で習った大塩平八郎の乱の首謀者にして名与力、高名な陽明学者でもあり、江戸時代に北区を舞台に活躍した人です。

で、つらつらと合間を見て調べてみるとですな、このおじさん、なかなかタフなおじさん、かつ、なっかなかの「まっすぐな男」なのです。

書くこといっぱいあるんで、4~5回くらいにわけてエントリーします。

1793年(寛政5年)、大塩家の八代目として、初代からの屋敷であった天満で生まれてはります。もろ、北区民☆

今、造幣局の官舎内に「洗心洞」の跡碑が建っていて、そこが屋敷跡です。洗心洞については後述するとして、この地の町名は今も「天満」ですから、もう、生粋の天満人です。

大塩家は、初代から代々、大坂町奉行所付きの与力の職を継承していて、禄高200石。これは悪い待遇ではなかったらしいです。禄高を現在の価値に直すのにはさまざまな計算方法があってひと筋縄ではないかないのだけれども、目安として2,500万円くらいとします。そっから経費がたくさん引かれますけどね。

さて、平八郎さんは、7歳のときに両親と死別し、その後、おじいさんとおじいさんの後妻に養育されます。不正を許せない実直な性格が後年いろいろとやらかすことになるんですが、その気質は、しつけに厳しかった継祖母の影響を強く受けている、と。このあたり、三つ子の魂百までというか、かーなり、徹底的に叩き込まれたみたいですわ。

14歳で早くも与力見習いとして出仕し、その後、25歳で正式に祖父の跡を継いで与力になります。
与力というのは、今の警察機構でいうところの中堅幹部みたいなもんで、奉行が警察署長やとしたら、その直下のセクションで、配下の同心を指揮して捜査にあたる捜査本部長みたいなもんですな。
25歳で捜査本部長ですから、今やと、中央官庁から派遣されてきたバリバリのキャリア組ということになるけれども、この時代、大阪は大阪だけでまわってたんで、実質的には地方公務員的存在であるには違いない、と。

同心、与力と、北区には今でもそういう町名がありますが、これはつまり、同心たちの住んでいたエリア、与力たちの住んでいたエリアと、エリア分けされていたころの名残で、同心と与力は上司と部下の関係なので、隣同士のエリアに配置されていたわけです。

もっとも、現存する与力宅は、今、造幣局の官舎のエリア内にあって、現在のそこの町名は天満ですから、当時は、そのあたりまで与力町やったんでしょうな。

与力宅は武家屋敷風の建物で、現存しているのは、江戸時代の東町奉行所配下の天満与力の中島家の役宅門で、当時、この付近一帯は、天満与力の役宅が軒を並べていたらしいです。今もむかしも、官舎のエリアってことです。
で、これが唯一の現存する建物で、しかも、門構えだけ。
1948年(昭和23年)に茶室として増改築されたものの、老朽化が激しいので、2000年(平成12年)に改築されてます。
当時の与力は500坪、同心は200坪野や敷地を賜ってます。広いっ!

東町奉行所配下天満与力、中島家役宅門

東町奉行所配下天満与力、中島家役宅門

どの与力宅も似たようなもんなので、大塩平八郎さんも、こんなかんじのところに住んでたんでしょうな。これ見て、往時を偲んでました。

さて、平八郎さんは、与力に就くやいなや、人物優秀やったんでしょうな、翌年には吟味役(裁判官)に昇進します。吟味約は、与力職のなかでも上級職ですわ。そこで、裁定に鋭い手腕を発揮した、と言われております。

平八郎さんは20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神であるところの、「よいと知りながら実行しなければ、本当の知識ではない」を、実践していくわけですね。
そんな平八郎さんが吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたこと。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届き、開けてみると、中身は小判。カネのお菓子は、今でこそ時代劇の悪代官が登場するシーンでよく見かけるけれども、この時代の出来事をモデルにして、このシーンはテレビドラマで定着していったのですね。
もちろん、賄賂がアリだから、捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていて、つまるところ、奉行所は腐りきっていたわけです。

で、ここで幼少のころから叩き込まれた不正を許さない性格が頭をもたげ、内部告発のための証拠を集めに奔走するわけです。保身、一切なしの真っ直ぐな男☆

証拠集めの結果、わかったことは、弓削というとんでもない与力が西町奉行所にいることを知ります。
弓削クンは、裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党ですわ。

大平八郎さんは弓削クンと徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削クンのシンジケートを壊滅させるんです。
結果、弓削クンは自害し、平八郎さんは3千両を没収します。この3千両は、今なら国庫に納まりますが、時代は江戸時代、大岡裁きが許されていたんでしょうな、貧民への施し金となったわけです。あたりまえですが、これ一発で、平八郎さんは庶民のスターになります。

ところが事件はこれで収まらず、悪党の後ろにはさらに大悪党が控えている、というのを地でいくような展開となります。世にいう大塩平八郎の乱なんて、まだまだ先の話。

捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠が出てきたんですわ。
もちろん、余計なことすんな!大人しくしときんしゃい!と、相手は幕府中枢ですから、圧力がかかるわけです。
でも、そんなことで怯む平八郎さんではありません!身の危険を感じて同棲中の彼女を親戚の家に匿ってもらい、彼自身は、腹をくくって巨悪に立ち向っていくのでした…。

そっから先、八面六臂の大活躍で、1830年(天保元年)、平八郎さん37歳のときですが、起訴までこぎ着けます。

ところがですな、起訴はしたものの、奉行所の裁定は、平八郎さんを深く失望させる内容だったのでした。
幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になっただけで、この事件は幕が下ろされました。今でいうところの、形式犯的な罰金20万円くらいの、軽~い処分です。
そして、その処分の1ヵ月後、平八郎さんを陰ながら応援してくれていた上司が辞任。お上に楯ついた代償は大きかった、ということです。
これに連座するかたちで、名与力として人望を集めていた平八郎さんも職を養子の格之助に譲って、奉行所を去ります。こうして、平八郎さんの25年にわたる奉行所生活が終わったわけです。平八郎さん、40歳のときです。

大塩平八郎の乱は、こっから先の出来事ですが、まずは前半生を。
この次は、まっすぐな男・平八郎さんに大きな影響を与えた陽明学の話を。

東町奉行所配下天満与力 中島家役宅門

大阪市北区天満1-25 造幣局官舎北2号館南

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