「ミイサン」伝説に見る、キタの人と樹木の深い繫がり

大阪はよく、緑が少ないと言われる。
梅田界隈と東京の都心とを比べてみると、緑の少なさが際立つ。
最近建設される大型施設では屋上庭園などの緑化が施されたものが増えてきてはいるけれども、基本的には、梅田のまちは高層ビルと道路で埋め尽くされていて、緑地といえるようなものは、ごくわずかしかない。

梅田のまちに緑が少ないのは、なぜだろうか?
歴史を遡って、探ってみたい。

梅田に鉄道の駅舎ができたのは、1874年(明治7年)の大阪駅が最初だ。
当初は市街地に近い堂島に建設する予定だったのが、地元住民や商家の反対にあい、当時はまだ田園地帯で人気のなかった梅田に建てられた。
田園地帯だった梅田が鉄道の開通に伴い急速に開発され、次第に大阪の玄関口として発展していったのだが、もとは田園地帯であることから、元来、樹木の少ないところだったのだ。

とはいえ、梅田周辺にまったく樹木がなかったわけではない。
1924年(大正13年)発行の「大阪市パノラマ地図」を見ると、天満の寺町に、まとまって樹木が描かれている。寺院が建ち並ぶエリアだが、それぞれの寺院の境内を埋めるように東西に樹木の緑がひろがり、グリーンベルトを形成している。
また、露天神社(お初天神)の境内にも樹木が見え、その北側にも広い緑地が描かれている。
そこからさらに北北東に行くと、東海道線の西側にある豊崎町南浜にも少し緑が見える。
このように、当時の梅田の周辺は開発が進んでいたとはいえ、寺社の境内や集落の一部に、緑の空間が存在したようである。

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1924年(大正13年)発行の「大阪市パノラマ地図」

 

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「大阪市パノラマ地図」に描かれた寺町。グリーンベルトが見える。

 

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「大阪市パノラマ地図」に描かれた露天神社(お初天神)の北側の緑。

 

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「大阪市パノラマ地図」に描かれた南浜。東海道線の南西の集落に緑が描かれている。

現在、キタの緑はどのようになっているか。

曽根崎一帯で今でもわずかながらに緑を残しているのは、露天神社(お初天神)だ。
ここには緑が多少残っているが、古木や巨木は見当たらない。
ただ、1993年(平成5年)に境内社の改装を行った際に、稲荷社に掛かっていた一枚の額が、古木を利用してつくられたものであることが墨書されている。
墨書によると、露天神社の境内にはエノキの大木があったが、1909年(明治42年)のいわゆる「北の大火」で焼け、その焼け跡に残ったエノキの残片を用いて、記念に額をつくったという。額に使われたエノキの形状からすると、かなり大きなエノキであったことが推測されているようだ。

中崎西の路地奥にも、古木がある。
細い路地の突き当たりにお地蔵さんの祠があり、そのお地蔵さんに引かれて路地に足を踏み入れると、その奥に古木が立っている。古木の根元には、祠が設けられている。
この古木はクスノキで、もとは民家の庭だったとか。つまり、もともと民家の屋敷地のなかで私的に祀られていたクスノキが、いつしか路地の古木となり、次第に地域の人たちの手によって祀られるようになった。
祠の額には「白龍大神」と記されている。毎年5月に、豊崎神社から人を招き、お祓いをしてもらっていて、地域の人たちは、この古木を熱心に信仰している。

ミイサン

中崎西の「白龍大神」とクスノキの古木。

淀川の河川堤防のふもと、本庄には、注連縄で祀られた巨大なクスノキがある。
このクスノキは、このあたりの庄屋さんの屋敷内で、ご神木としてずっと祀られてきた。
明治の終わりの新淀川(現在の淀川)開削の折り、旧中津川の一部を利用して、毛馬から此花の伝法まで一直線の放水路が造られたが、土砂の運搬や工業用水の供給の問題があり、このご神木のある本庄に、新淀川に沿って長柄運河が開削された。
運河の開削ルートにこのクスノキがあり、さすがにご神木を根こそぎ、というわけにはいかず、ご神木を避けるかたちで、ここだけ川幅を狭めた。そのせいで船の渋滞が起こってケンカがいくつも勃発したという話が残っている。

ミイサン

本庄にある、注連縄を掛けられたクスノキ。

長柄の豊崎東小学校の北側にも、玉垣で囲まれた大きなムクがある。玉垣のなかには、ムクのご神木、鳥居、祠、石碑があり、「鶯塚」と呼ばれている。
ウグイスは、ヘビと並んで、古代からの伝承によく登場する。
今から1200年ほどむかし、長柄の長者の美姫がウグイスを飼っていて、かわいがっていた。ところが、この姫が病のために亡くなると、ウグイスはその死を深く悲しみ、歌を詠み、あとを追うようにして死んでしまった。長者たちは、この麗しい話を後世まで伝えようと、ウグイスを姫とともに埋葬し、この地を鶯塚と名付けた。

また、長柄のこの地は、約1300年前の第36代孝徳天皇の皇后の遺跡であり、中大兄皇子と藤原鎌足中臣が大化の改新を断行した由緒の地でもあり、『摂津名所図絵』によると「孝徳天皇の御陵は南河内の山田村に古来より鶯凌と称へられているので、この鶯塚も天皇に関係の高貴の方の御墓であろう」とある。

また、(正徳3年)の夏、河内狭山の藩士で笹本源之介が父の仇である加州の浪人羽滝伝太郎を母とともに4年間探しており、長柄長者の配慮により、この鶯塚のほとりで見事仇討ちを遂げ、狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたという、この鶯塚を舞台にした芝居もある。
むかしは小丘の上に五輪塔の墓があって、その前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ、小庵もあり、線香の煙が絶えなかったという。

というように、長柄の鶯塚には3つの伝承がある。
最初の長良長者の姫と鶯の話は、バリエーション違いをよく耳にする。
大化の改新の縁の地だとする説は、一見、飛躍が過ぎるように見えるけれども、難波宮が長柄にあった可能性を考えると、案外と無関係ではないのかもしれない。前期難波宮は、別名、難波長柄豊崎宮と呼ぶのだから。

ミイサン

長柄の鶯塚とムク。

野崎町、読売新聞社の西側の道路には、イチョウの古木が残っている。
イチョウの周囲には立派な玉垣がめぐらされ、根元の南側には「龍王大神」の祠が建てられている。
このイチョウには、伝承がある。
イチョウが生えているこの場所は、もともとは太融寺の境内で、その後、一体が道路となり、このイチョウも伐採されようとしていた。ところが、幹にノコギリを入れて伐りはじめたときに事故が起こり、伐採を行なっていた人が死んだという。その後、このイチョウは伐採されることもなく、道路の一角に残されることになった。

ミイサン

野崎の「龍王大神」とイチョウ。

「龍王大神」とは、ヘビの神さまである。
「龍王大神」のイチョウには白ヘビが棲んでいるといわれ、その白ヘビはイチョウの根元に供えられた玉子を食べている。

ところで、太融寺の境内には淀君の墓がある。
戦前は、淀君にあやかろうと、キタの花街の女性たちが参拝する姿が後を絶たなかったという。
特に、「巳の日」の縁日のときには、参拝する女性が大挙した。
というのも、淀君の墓の横には、守り神のように「白龍大社」の社があり、縁結びの神さまと伝えられているからである。
「白龍大社」の白ヘビはメスであり、前述の「龍王大神」がオスのヘビであり、両者は番(つがい)である。

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太融寺の境内にある「白龍大社」。野崎の「龍王大神」とは番(つがい)。

ざっとキタの巨木・古木とそれにまつわる伝承を見てきた。
巨木や古木にはヘビが棲み、祀られているケースが多い。あるいはウグイス。
もうひとつは、巨木や古木の伐採が忌避されてきたということ。巨木や古木の伐採者には不幸が生じるとの言い伝えが、どこにもあり、民俗学の世界では「巳さん(ミイサン)伝説」と呼ばれ、広く知られている。
こうした樹木にまつわる伝承は、梅田周辺の地域にかぎったことではなく、大阪では広い範囲にわたって分布している。上町台地に残るクスノキやエンジュの樹にも、おなじ内容の伝承がある。

このような巨木や古木にまつわる伝承の存在は、なにを意味しているのか。

ひとつには、大きく成長した樹木や苔むした老木に対する、人々の畏怖があると考えることができると思う。
それは人々が持つ宗教性の表れであり、ここではその宗教性が「ミイサン」という象徴によって表され、ご神木として祀るようになる。
人々は、「ミイサン」という存在を介して、巨木や古木と深い関わりを持ってきた。そこには、民間信仰によって結ばれた、樹木と人との深い繫がりの歴史があり、緑が少ないといわれる大阪や梅田周辺にあっても、そのことは変わらない。

キタは、緑が少ないと言われる。
たしかにそうなのかもしれないが、それでも、数少ない緑は、巨木や古木といったかたちで今も残され、人との深い繫がりのなかで生きながらえている。
無関心というわけではないのだ。

昨今は、丸ビルの緑化、新梅田シティの緑の回廊と里山など、既存の施設の緑化が進んでいる。
JR大阪ステーションシティやグランフロント大阪、阪急百貨店など、ここ数年に新しくできた大型施設のほとんどには、屋上緑化が施されている。
昨今のこうした動きは、さまざまにかたちは変わっていくのかもしれないけれども、キタと緑に浅からぬ付き合いがあるということの証左なのだと思う。

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