熱狂エチオジャズ

「熱狂エチオジャズ」
今日は、中之島の中央公会堂へ、国立民族学博物館の先生の講義を聴きにいったのでした。
講義は、エチオピアの音楽について。
大好きなみんぱくの先生が、大好きな中央公会堂で、さらに僕が今一番ハマっているエチオピア音楽について、現地で採集してきた音源を交えて講義してくれるという、もう、僕的には、これ以上なにを望む?って組み合わせのイベントだったのですよ。
エチオピアのポピュラー音楽エチオジャズは、ワールドミュージックの世界では、今、もっともアツいジャンルです。
歴史を紐解くと、エチオジャズは60年代〜70年代前半にかけて黄金期を迎えるんですが、74年のクーデタで軍政が敷かれ、ミュージシャンは迫害され、エチオジャズは、一度、死んだ!と言われました。それがですね、91年に民主共和制に生まれ変わり、相前後して、フランシスというフランス人プロデューサーが、エチオジャズを「発見」するのですね。そっから、ワールドミュージックの集積地であるフランス発のエチオジャズが世界に広まっていきます。「エチオピクス」というコンピ盤が何枚も発売され、僕もそれでエチオジャズを知ったクチですわ。
コンピ盤「エチオピクス」シリーズは現在までに27枚が発売されていて、amazonなんかで買うこともできますね。YouTubeにも、たくさんの音源が上がってます。「ethiopiques」で検索かけると、どっさり出てきます。
日本だと、ソウルフラワー・ユニオンが、いち早く、エチオジャズをミクスチャーしましたな。名曲「ダンスは機会均等」☆
ワールドミュージックとして紹介されるアフリカ音楽といえば、マリやセネガル、モロッコやアルジェリアといった西アフリカのものがほとんどで、フランシスが「発見」するまでは、東アフリカに位置するエチオピアの音楽は、まだ世には知られてませんでした。
この発見は、まさに衝撃ですね。西アフリカのそれとは、まるで違う!
エチオジャズ最大の特長は、もんのすごーく乱暴に言い切ってしまうと、5音階を基調とした演歌的メロディにアフロビートやブラックミュージックのリズムが後ろで走っているという、なんちゅーか、踊れる演歌!(笑)なのですよ。
熱狂的で、クールで、ヒップで、キッチュで…、これはほんまに新しい発見です。そしてね、やっぱ、グルーヴが素晴らしいんですわ。
その秘密やルーツを知りたくて、僕は、いそいそと講義を聴きに出かけたのでした。
先生は、みんぱくに籍を置く人類学者・川瀬慈さん。人類学者ですから、もちろんフィールドワークをされているわけで、フランシスと1、2を争うほど、音源を採集されてはります。
中世、エチオピアにはどうやらそれほど盛んに音楽を楽しむという文化はなかったようです。
アルメニアからもたらされたエチオピア正教会のなかで奏でられるキリスト音楽と、主にアンタッチャブル層によって奏でられた音楽とがあったのだとか。
当時、大衆のなかで音楽を奏で、聴く人たちは、革職人や鍛冶職人などのクラフトマンやアルチザンが主だったのだそうです。そして彼らは、アンタッチャブルだったとも言います。
そういう細々とした歴史があり、19世紀末の植民地時代、エチオピアに侵攻するイタリア軍をロシア軍+エチオピア軍が迎え撃ったというエポックを機に、ロシアから管楽器40個が贈られたのだそうです。ここが、エチオピアと西洋音楽とが邂逅した瞬間だった、と。
そのエポックをきっかけにじわじわとエチオピア音楽は発展をはじめるわけですが、次のエポックは、1950年代。帝国最後の皇帝となったハイレ・セラシエが音楽に大変な理解を示し、アルメニア人40人を皇室所属軍隊の楽団として雇い入れるのですね。それを基礎として、エチオピア人を中心とする「皇室護衛楽団」が生まれます。
さらには、「愛国劇場」なるホールもでき、市営の楽団、警察所属の楽団など、皇帝ハイレ・セラシエがパトロンとなって、音楽がどんどん盛んになっていきます。
当初はクラシックだけだったものが、ジャズやアメリカポピュラー音楽が流入し、さらにはエチオピア固有の音階である5音階も取り入れられるようになり、エチオピアと西洋音楽とのクロスオーバー、ハイブリッドが進みます。
そんななか、アフリカ初のバークリー音楽院を卒業するムラトゥ・アスタトゥテが登場。エチオジャズの父。フランシスのコンピ盤「エチオピクス」にて知られるようになった最大の「発見」は、彼の音楽です。僕が狂喜乱舞したのも、じつに、彼の音楽がきっかけです。いやー、まさかアカデミズムの世界からムラトゥ・アスタトゥテについて語ってもらえるって、すごすぎ!
ムラトゥはNYに留学し、ジャズを学び、サルサ等のラテン音楽に傾倒していき、おそらくは当時のフリージャズの影響を受けて5音階のエチオピア音階(エチオピア性)を取り入れ、そこにはデューク・エリントンなんかも絡んでくるのだけれど、まさにエチオジャズとしか呼びようのない、独自の音楽を確立させていくわけです。
50年代から60年代、70年代前半にかけて、エチオジャズは、このようにして黄金期を迎えます。
ムラトゥだけでなく、
素晴らしいサックス奏者ゲタチョウ・メリクア
エチオピアの声と呼ばれたボーカリスト、テラフン・セセとモハメド・アフメッド
エチオピアのファーストレディと呼ばれたミューズ、ブズネス・ベケレ
エチオピアのエルヴィスと呼ばれたアラマイヨ・エシェテ
続々と出現したキラ星の才能は、ほとんどすべて「エチオピクス」シリーズに収められています。僕がここ数年一番聴いている音楽が、このあたりですわ。
74年のクーデタによって敷かれた軍政がエチオジャズ・ミュージシャンを迫害したために、エチオジャズは一度、死にます。
離散し、音源も消失します。ミュージシャンの多くがアメリカ西海岸に亡命していったのだとか。
そのような暗黒の時代を経て、91年、民主共和制に国が生まれ変わったのを機に、彼らはエチオピアに戻ります。相前後して、フランスのプロデューサーであるフランシスが、彼らを「発見」し、世界中にエチオジャズが知られるようになります。ライ・クーダーがハワイイアンを世に紹介し、ブエナビスタとともにキューバ伝統音楽を世に出したのとおなじことが、エチオジャズにおいても行われたわけです。
エチオジャズはその後も世界に伝播し、あちらこちらでクロスオーバーし、ハイブリッドし、ミクスチャーされています。
僕が今一番アツく聴いているのは、オランダのパンクバンド「The Ex」なのだけれども、彼らのバンドには、なんと、エチオジャズ伝説のサックスプレイヤー、ゲタチョウ・メリクアが参加しているからですわ。
踊れる演歌コンテンポラリー・パンクって、世界中探しても、ここしかないよ!
少しまえのパリがそうだったけれども、エチオピアの首都アジスアベバのクラブシーンは、かつてないほどの国際色豊かなシーンになっているそうです。ヒップホップへの流入とか、えらいことになってるらしいです。あぁ、行きたい!
さて、エチオジャズは、なぜに、演歌的テイストというか、アジア的郷愁を漂わせているのか。
実際、エチオピア人は、日本の演歌が大好きなのだそうです。「日本の恋人」なんていう、エチオピア・オリジナル演歌の大有名局があるんだとか。
なぜ、そうなるのか。
さまざまな説があるようです。
朝鮮戦争に同行した楽団(皇室所属軍隊の楽団だからね)が日本に寄港して影響を受けた。
皇帝ハイレ・セラシエは二度来日しており、大阪万博のときに日本のレコードを大量に持って帰った。
などなど。
諸説あるのですが、そもそも、5音階の音楽は世界中に点在するし、だとするならば、人類が普遍的に持っている記憶だということもできるのです。
が、しかし、それで片付けるのには、エチオジャズが内包する演歌的テイストは、一歩も二歩も踏み込んでいるようにも思うのですね。
じつはそのあたりの考察について、この川瀬先生は、坂本龍一教授とちょっとした論争をしているとのことです。
3月、Eテレで放映予定の教授がやってる番組「スコラ 音楽の学校 アフリカ音楽編」に川瀬先生が出演していて、論争が収録されているとのこと。もう、絶対に見るわー。
今回の講義は20人弱が受講したこじんまりとしたものでありながら、貴重な音源が惜しげもなく流され、いやー、実りの多い時間だったな。
川瀬先生とも仲よくなれたし、隣同士になった女性は、レゲエ・ミュージシャンだというではありませんか!
いい時間でした。
写真とかないので、僕が今一番ハマっているエチオジャズで、かつ、講義でも流された、
ゲタチョウ・メリクア&ジ・Exを。オランダのパンクバンドがエチオピア伝説のサックスプレイヤーと組んだ一発☆

中央公会堂

大阪市北区中之島1-1-27

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