また今年も1月17日がやってきた

また今年も、1月17日がやってきました。

去年の1月17日は、深夜から未明にかけて、大阪から神戸を目指して歩いていました。
寒空のなかをね、足を棒にして歩いてましたわ。
twitterをつらつら見ていたら、歩く!って人がたくさんいて、僕の性格からしてそんな悪魔の囁きには絶対に乗らないはずなのだけれども(笑)なーんかね、歩いてみようかな、と、そんな気になったのでした。
歩いてみてビックリしたのは、歩いている人がね、意外なほど多いのですよ。2号線を、結構な人が歩いているのです。

17年前の震災のとき、否応なく歩かされた人はたくさんいました。
あれから17年、毎年歩いている人も、きっと、たくさんいるのでしょうね。それは否応ではないだろうけれども、でもね、なにかを忘れないために、なにかを思い出すために、心の澱と対話するために、心が、歩け歩け!と迫るような否応のなさに突き動かされて歩いている人は、きっとたくさんいるのだと思います。
未曾有の体験を個人史に刻み続けるために、歩いているのだと思います。

去年は、NHKで「その街のこども」が放映されたんだよな。

こんな作品です。

佐藤江梨子と森山未来が主演したこの映画は、実際に震災を体験したキャスト&スタッフがたくさん参加していて、ドキュメンタリーのような趣で製作された映画です。
2010年にNHKが放映し、大反響を呼んで、NHKドラマ前代未聞の劇場版が再編され、全国公開で上映されました。劇場版は何度も何度も上映期間が延長され、その後、再びNHKで放映されたのでした。昨年6月にDVDも発売されました。
この作品の秀逸なところは、
子どものころに体験した震災というものに、あらためて向き合おうとする、現在進行形の若者にスポットが当たっていたことです。
傷と共存し、なおかつ前を向いていこうとする、その格闘の姿が、淡々とではあるけれども、描かれていたのでした。
ラスト、追悼のキャンドルナイトが行われている東遊園地に辿り着いたところから流れる音楽も含めて、音楽を担当した大友良英は、彼のキャリアでもっとも美しい音楽をつくりあげています。

夜の三宮と御影を往復するだけのこのロードムービーは、言うまでもなく、夜の神戸の町並みをそのまんま映し出しています。
夜の神戸。
そう、僕にとっても、震災からこっち、神戸といえば、夜のイメージが主旋律になってます。

かつての相方と、知り合いの人たちを迎えに行ったとき、昼すぎに大阪を出たのに、神戸に着いたのは真っ暗な夜でした。
そこで知り合った長田の人たち、ウチナンチューや在日コリアンの人たちと仮設を掃除したり家具を運び込んだりしたのも、夜でした。
ソウルフラワーの別働隊、モノノケサミットが長田神社で演奏会をやったのも、篝火を焚いた夜でした。
月が出ていたり、雪が舞っていたり…。
そのあと、オジィやオバァを連れてルミナリエに行くようになったけれども、これももちろん、夜。

そういう刷り込みがあって、阪神大震災と夜に歩くイメージは、僕のなかで分かちがたく結びついていて、たぶん、歩いたんだろうな。
ザッ、ザッ、
と、スニーカーが地面を擦るたび毎に、大地の冷気が足許から立ち上がってきて、それがスイッチとなって、いろんな風景が立ち上がってきて、目のまえの風景と重なっていきます。
昨年のこの時期は、そういう夜を過ごしたのでした。

毎年、この時期のブログに書くことは、決まってます。

また今年も、1月17日がやって来ました。
もう、17年になる。あの年に生まれ、「望」や「希」と名付けられ祝福されたお子らは、今、高校生ですね。

そして今年は、言うまでもなく、例年の1月17日とは、ちょっと違います。
東北で、未曾有の大震災が発生して、最初の1月17日。
重なる景色もあるし、思い出す景色もあるし、もちろん、違うものもあります。
僕にとっては、両者の物理的な距離も精神的な距離も違います。

17年前の今日、1995年1月17日の朝5時46分、ドーンという、地の底から巨大で不条理ななにかが突き上げてくる衝撃があって、大阪から神戸の一帯は、グチャグチャにされたのでした。

その日は、僕の誕生日でね。
でも、この日を素直に誕生日だと思うことは、もう、ないですね。

当時、僕は、大阪の北摂は豊中というベッドタウンに住んでいて、建物の倒壊こそなかったですが、家のなかはグッチャグチャ、皿やらビンやらの大半が割れ、CDは散乱し、CDのプラケースは割れまくり、2台あったテレビの1台がひっくり返ってブラウン管が割れ、食卓のテーブルは部屋の端まで吹っ飛び、エアコンの室外機がぶっ飛んで壊れました。

普通の地震とはまったく違っていて、ドーン!と、下から突き上げるような衝撃だったので、最初は、爆弾かと思ったもんです。
南米のペルーに住んでいたときは、過激派の連中がよく爆弾を爆発させていて、そんときの衝撃とよく似ていたのですね。でももちろんテロなんて日本ではそうそうあるもんじゃないから(相前後してオウム真理教がやらかしてくれたことも、個人的には澱のように、心の底をずっしりと覆っています)、慌ててテレビをつけたら、神戸が瓦礫の山です。

あまりの出来事で、部屋中が散乱して足の踏み場もない状態で、片付けなきゃいけないのはわかっているんだけれども、しばらくは、なーんもできなかったです。
なんかね、恐怖感だけがあったな。
余震が怖くてね、余震があるたびに、ビクッとしてました。そっから数ヶ月はエレベータに乗れなかったほどで。図太さにかけてはよっぽどの自信はあるけれども、それでも、何ヶ月も、エレベータには怖くて乗れませんでした。エレベータに乗ってるときに地震が来たらと思うと、怖くてね。PSTDって言葉を耳にするようになったのはこの時期からだと思うけれども、PSTDってこういうことか、と、知ったもんです。それでも、僕のなんて、引っ掻き傷みたいなもんだけれども。

僕の住んでいた場所では建物の倒壊もなく、ライフラインもすべて通じていたので、翌日だったか翌々日だったかには、神戸に向けて走ってました。
幸いにして僕の知り合いはほとんどが無事だったのだけれども、神戸には、当時の相方の知り合いの外国人がたくさんいて、彼らや彼女らが、かなり深刻な被害に遭っていて、迎えにいこう!ってことになって。
電話がなかなか通じなくて、でも国際電話がわりあいと通じやすかったので、香港の知り合いをベースにして、そこに伝言をあずけるかたちで連絡とってました。まだ、ネットもメールもなかった時代のことです。

高速道路が波打って倒壊していて、あんな風景、あとにも先にも見たことがないです。
垂直に建っているはずのものが大きく歪んで建っているのを見ると、平衡感覚がおかしくなりますね。三半規管って、視覚からの情報があって初めて機能するんだな、ということを、そのときに実感したのでした。

東日本大震災では、大型船が陸に打ち上げられている風景が映し出されていたけれども、あの風景もまた、現場にいる人たちの三半規管を機能不全にしたのだと思います。

迎えにいった外国人は10人以上で、皆、家をなくしてるから、僕の家に寝泊まりしてました。
最大で、11人が僕の家で寝泊まりしてました。広い家じゃないから、もちろん雑魚寝で、それこそ足の踏み場もないくらいだったけれども、なんだか楽しかったですね。
いろんな国の言葉が飛び交ってね。公用語を決めよう!ってなったんだけれども、英語とスペイン語とアラビア語以上に絞りようがなくて、誰かがスペイン語を英語に翻訳して、その英語をまた誰かがアラビア語に翻訳して伝えてって、伝言ゲームみたいになってました。話がね、よく食い違うんだよ(笑)今日の晩ゴハン当番は○○!って単純な話ですら、最終的には食い違う始末で(笑)
んでね、いろんな人が家にいたから、肝心の僕と相方のプライベートがまったくないのですよ。10人も引き受けていると、出費もそれなりにかさむわけで、今月のおカネ大丈夫か?なんて話も、家のなかではできず…。
ただ、こういうとき、筋金入りのバックパッカーだった経験が生きましたですね。旅先ではほどんどが相部屋や大部屋だったし、こういう合宿生活はまったく苦にならず、むしろ楽しかったです。

知り合いの外国人も、知り合いの知り合いの外国人も、何人もピストン輸送して、そうしているなかで、僕は、長田のオバァやオジィ連中と知り合うことになったのでした。

長田は、在日コリアンやらウチナンチューやら、いわゆる故郷を離れた人たちが住んでいる土地です。それも、住んでいたというよりは、そこに押し込められた、そこにしか住むことができなかった、という土地です。
水はけが悪くて、ようするに、下層の土地。

大規模災害というのは、皆が一様に被害を受けているように見えて、じつは、如実に格差が出るものでも、ありますね。
持たざる人たち、ギリギリの生活を余儀なくされてきた人たちが、ひとたび災害に遭うと、悲惨です。欠けてしまったものを、自力で埋め合わせる余力は、もう、どこにも残っていません。
復興に尽力した市民派の小田実は、彼らは政府によって捨てられた「棄民」だ!と、看破しました。そして、その死を、「難死」と名付けました。
黒田門下の大谷昭宏は、最初の5分は天災だったかもしれないが、それ以降は「人災」だ!と、咆哮しました。

あの日からこっち、生きかたを変えさせられてしまったなあ、という思いは、僕にはありますね。

あの年からはじまった長田のオジィやオバァとの付き合いは今も続いていて、こちらが励ましているつもりが、いつの間にか励まされていたり…。もうね、ミカンを持っていったら帰りにメロンを持たしてもらってるような塩梅で(笑)
毎年、櫛の歯が抜けるように誰かが鬼籍に入っていくのだけれども、それでも、あの人たちは旺盛に生きてはります。ほんと、旺盛な生命力です。
悲しいことや辛いことを人数で割ることができたり、楽しいことや嬉しいことは人数分だけ倍々ゲームで膨らんでいくといった、人と人とは繋がることで、日々をかつがつ凌いでいけるんだよな、というようなことを、僕は、あの人たちと付き合うことで素直に受け入れられるようになったように、思うのです。
この年になった今でも、僕には、群れることがキライだったり、簡単に理解されてたまるか!といった十代のような気分があるのだけれども、それでもね、あの人たちと付き合うようになって、人と人とが繋がることの心地よさを、少しずつでも、受け入れられるようになってきましたですね。

この時期、ソウルフラワー・ユニオンは、僕にとっては欠かすことのできないヘビー・ローテーションです。
もっとも、この1年は、ずーっとヘビー・ローテーションです。

このバンドとの付き合いは、もう、25年以上になりますね。
若いころは、目を見開いて真っすぐに聴衆を射抜くような面構えで歌ってました。パンクの精神をそのまんま体現したようなバンドでね、触れただけで切れてしまうような、鋭いジャックナイフのようなバンドでした。

そのバンドが、震災を経て、非電化を試み、自分たちの表現したい音楽よりもその場で求められている音楽を演奏する機会を、どんどん増やしていった。
でもそれはなにも媚を売るといったことなどではなくて、ひとときであっても祝祭の空間を現出させるのだという、彼らなりのコミュニケーションの模索です。

そうやって、このバンドは、ずいぶんとタフなバンドになってきました。

音楽こそが国境を越え、人々の絆と連帯をもらたす、なんて物言いはあまりにも牧歌的で、音楽ほど国威発揚や戦意昂揚に利用され、加担してきたものは、他にありません。
それでもね、そうした乾いた認識に立ったうえで、それでも、と、鳴らされる音楽がずいぶんと増えてきたように思うし、ソウルフラワー・ユニオンの音楽は、まさにね、先頭を切ってそのような音楽をやっているように思います。

音楽なんてのは、どんなことを歌った、なにを託した、なんてことが大切なのではなくて、誰がいつ、どのような状況でなにを歌ったのかのほうが、はるかに大切。

あの震災を機に生まれた『満月の夕』は、阪神間の民、草の口の端から、どれほど流れたことか。

エレキギターを三線に持ち替え、オルガンをアコーディオンに持ち替え、ドラムをチンドンに持ち替え、電気が復旧していなかったころから、長田の公園で、オジィやオバァを励ますために、流行歌の演奏会を、何度も何度もやってました。
そうやって、聴く者すべてを飲み友だちにして、一緒に泣いて笑って、酔っぱらおうや、生きていこうや!って、仲間の輪をひろげていきました。
彼らのいいところは、理念なんかよりも先に、具体的なアクションを起こしてるとこだな。

音楽というのは、パンにも塩にもならないけれども、人の心の、欠けてしまったなにかを埋めますね。そして、言うまでもないことだけれども、そうすることで、彼らこそが、どれほどの元気をもらってきたことか。

今年は、東日本大震災が起こってから初めての1.17。
やっぱ、例年の1.17とは、少し感じかたが違います。

宮城県石巻市だとカキの養殖が盛んだったことからお節にはカキフライが入るのだけれども、今年はありませんでした。身内が亡くなっているので、お正月の飾りつけも、ありません。
そういうニュースを耳にすると、あれから何ヶ月も経つけれども、やるせない気分になります。
そんななかでも、
『満月の夕』は、東北でも、人々の口の端から零れ、再生の現場の通底音になっていると聞きます。

阪神大震災を経験したとはいえ、東日本大震災は、遠く離れた僕たちにとっても茫然とする事態で、暗澹たる気分が続くのみで、なにをすることもできませんでした。
でも、やっぱりね、阪神での経験があったからだと思うのです。
ソウルフラワー・ユニオンの言葉を借りれば、
不暁不屈のオンボロが、互いに明日を酌み交わすことで、それぞれの場所で、それなりに、どうにか、糊口をしのごうとしています。

かつがつとでも今を生きているかぎり、いいことがあるじゃないですか。

ソウルフラワー・ユニオンの面々は、震災直後、いち早く、宮城県の女川町に入ったのでした。そんななか、波止場の瓦礫に埋もれる一台のターンテーブルを見つけ、それをtwitterにアップした。
すると、です。
なんとそのターンテーブルの持ち主が判明し、さらになんと、その持ち主はソウルフラワー・ユニオンの20年来のファンで、阪神大震災のときに、彼は、ボランティアとして、ソウルフラワー・ユニオンが主催した被災地の宴の手伝いをしていた人でもあったのでした。
そこから、津波で家も祖父も失った彼との交流がはじまり、5月には被災地での出前ライブが実現したのでした。

そうしたエピソードをモチーフとして生まれた『キセキの渚』は、独りよがりなセンチメンタルを吹き飛ばすかのような、ソウル・フラワー節全開の賑やかで軽快なロックンロールです。

SFU

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