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京

弥勒菩薩半伽思惟像(広隆寺) 弥勒菩薩半伽思惟像(広隆寺) 弥勒菩薩半伽思惟像(広隆寺)
謎に満ちたアルカイック・スマイルだが、相当に知的な印象を受ける。いや、それ以前に、ため息が出るほど美しい。そして、艶かしい。指の一本一本に見とれてしまう。弥勒とは慈悲から生まれた仏だが、慈悲から生まれるものというのは、こうも美しいものか。慈悲、という抽象概念を具現化すると、こうも美しく完璧な姿態となるものか。
しかし、この仏像も、じつはドイツ人哲学者カール・ヤスパースのによって、その美が発見された。
「私はこれまでに古代ギリシャの神々の彫像も見たし、ローマ時代につくられた多くの優れた彫刻も見てきた。だが、今日まで何十年かの哲学者としての生涯のなかで、これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことはなかった。この仏像は我々人間の持つ心の平和の理想を、真に余すところなく最高度に表しているものです」。とは、ヤスパースの言葉だが、実存主義などでは到底説明出来ないレベルの美であることは、明らかだろう。

六観音(千本釈迦堂) 六観音(千本釈迦堂)
京都・千本釈迦堂(大報恩寺)は、応仁の乱の兵火を奇跡的に免れた京都最古の寺である。観音菩薩は主に6形態あるが、この大報恩寺の霊宝館には6バージョンすべての観音が勢揃いしている。このように完全なかたちで残っているのは、日本でもこの寺だけだそうだ。各仏の高さは190cmもあり、ズラリと居並ぶと壮観である。
6菩薩すべてが凛とした優雅さを備えており、身体を覆う衣は木像とは思えぬほどの柔らかさだ。准胝観音は前部でリボンを結んでおり、何気な洒落っ気がいいアクセントになっている。一体だけ坐している如意輪観音は、腕が6本あるのにもかかわらず違和感なく調和しており、異形の姿にはまったく見えない。左端の聖観音はじつに端正なたたずまいで、像の内部から気品が炸裂している。これが1体ずつ単体で存在していたらと想像するのは難しいが、6体すべてが揃うことで舞台装置としてはより完璧なものになっているはずである。受ける崇高さの感覚が違うはずだ。

阿弥陀如来像(永観堂) 阿弥陀如来像(永観堂)
紅葉で有名な永観堂のご本尊は、有名な、見返りの阿弥陀如来像である。ある日、永観が熱心に念仏を唱えながら歩いていると、本尊の阿弥陀仏が壇上から降りてきて、すたすたと永観の前を歩いていった。驚いて永観が立ちすくむと、阿弥陀はくるりと振り返り、「永観、遅し」と声をかけたと言う。その姿をリアルに再現したのが、永観堂の見返り阿弥陀とされている。
が、僕は、違うと思う。これは、作り話などではなく、夢なのだ。作り話だと、「永観、遅し」などというキツい言葉を、阿弥陀に言わせない。「永観、早くおいで」くらいの、温かい言葉をかけた話にするはずだ。きっと、居眠りをしていた永観の潜在意識が、居眠りしているところを見つかったら叱られるというネガティブなイメージを引き寄せ、「永観、遅し」という、ちょっとキツい言葉に結びついたのだ。

宝誌和尚立像(西往寺) 宝誌和尚立像(西往寺)
おそらく、これほどインパクトのある仏像はない。なんと和尚さんの顔が真っ二つに割れ、中から十一面観音が出てくるのである。宝誌和尚は実在した中国南北朝時代の高僧で、梁国の武帝が絵師に和尚の肖像を描くよう命じると、和尚の顔が割れて中の菩薩がどんどん変化するので、結局は顔を描くことが出来なかったという。その逸話から、この造形が生まれた。
人から仏になる、脱皮の様子を具現化したとする説もあるが、僕は、そうは思わない。仏と和尚の顔のシャープさ、リアルさが等しいからである。この像は、人は誰でも身体の内に仏が宿り、そしてまた生きたまま仏と化すこともできると謳っているはずだ。

布袋像(萬福寺) 布袋像(萬福寺)
弥勒菩薩の化身とされている布袋だが、この、生身の欲望が剥き出しになった布袋像を見ていると、弥勒菩薩の化身だということなど、どこかに吹っ飛んでしまう。顔はいやらしいほどに欲望が浮かび、丸々と太った腹には、この世の財と快楽が詰まっていそうである。すでに役目を終えて死んでしまっている仏像ではない。現世利益を求めて訪れる人々の欲望を一心に受け止める、今現在も生きている仏像の証か。

空也立像(六波羅蜜寺・月輪寺) 空也立像(六波羅蜜寺・月輪寺) 空也立像(六波羅蜜寺・月輪寺) 空也立像
ただ、愚直なまでに念仏を唱え続けた。それだけが、人々を救うのだと。口から飛び出す6体の仏は、南無阿弥陀仏である。空也像と言えば、この、言霊が具現化された飛び出す南無阿弥陀仏に眼を奪われがちだが、その非リアリズムとは対照的に、全体は完璧なリアリズムで貫かれている。血管の浮き出た足の甲や爪先、わらじにいたるまで、さらには頭蓋骨のいびつさや痩けた頬にわずかに盛り上がる筋肉まで、これ以上ないほどリアルに再現されている。ただし、六波羅蜜寺の立像は、身長が117センチしかなく、奇妙に小さい。そんな、リアリズムと非リアリズムのせめぎ合いが、空也立像にはある。そのせめぎ合いの激しさが、この立像に一層の緊張感を与えている。野に砕けた空也の激しさが、そこに表現されているようでならないのだ。
なお、月輪寺の空也像は、修行中の空也を捉えたものである。自らを追い込んでいったに違いない修行の、なんと激しいことか。

楊貴妃観音座像(泉涌寺) 楊貴妃観音座像(泉涌寺) 楊貴妃観音座像(泉涌寺)
玄宗皇帝が亡き妃の冥福を祈って彫らせた像と言われ、宋から日本へ持ってこられた宋様式寄木造の等身像。楊貴妃が観音菩薩になったわけではなく、楊貴妃をモデルに観音像を造った、ということ。これにかぎったわけではないだろうが、仏像にはモデルがいると思われる。人の形に某かの抽象的概念を込めて造形するのである。そこに、実在のモデルが存在していても、なんら不思議ではない。観音さまは女性ではないが、慈悲を表していくうちに、女性に近づいていくのは、それこそ、人間の願望ではないか。事実、この観音像も、慈悲を云々する以前に、生前の楊貴妃のきらびやかさが勝っているようにも思える。仏像を造る人もまた、生身の人間なのである。
なお、この楊貴妃観音座像の口許に髭のようなものが描かれているが、これは、口許の表情を表したもの。発想が漫画的である。

閻魔大王像(永福寺蛸薬師堂) 閻魔大王像(永福寺蛸薬師堂) 閻魔大王像(永福寺蛸薬師堂)
閻魔大王の両袖が風圧でめくれ上がっており、怒髪天を突く形相は圧巻のひとことなのだけれども、その背後には、桃太郎のようなかわいらしい太陽が燦々と輝く……。正直、解釈に苦しむ。

十一面千手千眼観世音菩薩(三十三間堂) 十一面千手千眼観世音菩薩(三十三間堂)
長大な堂内をびっしりと埋め尽くすようにして立つ十一面千手千眼観音像。本像の千手観音坐像を中心に、左右に10段50列で500体ずつ十一面千手千眼観音像が整然と並んでいる様は圧巻である。頭上には11の顔、両脇には40本の手を持ち、1本の手が25種類の世界で救いの働きをし、40を25倍して千手を表しているという。千一体の観音像は、仰いだ角度のままですべて拝めるように安置されており、そのなかには、会いたいと願う人の顔が必ずあると伝えられている。こうした圧倒的な舞台装置を用意するのは、宗教の常道でもある。ありがたみを、わかりやすいかたちで示している。

雲中供養菩薩像(平等院鳳凰堂) 雲中供養菩薩像(平等院鳳凰堂)
京都は宇治にある平等院鳳凰堂。この中堂に、定朝作の御本尊・阿弥陀如来坐像を取り囲むように中堂内壁に52体の雲中供養菩薩像たちが飛びまわっている。荒々しいタッチだが、どれも優しい顔立ちで、観ていて飽きない。
頼通は自分が死んだらこの本尊の阿弥陀が雲中供養菩薩たちを引き連れて自分を西方浄土に連れて行ってくれるようにと、ひたすら一人祈りを捧げた。ここはまさに、プライベートな極楽浄土なのだ。すべては、頼通をはじめとした藤原氏のためだけに存在している。権力者たちの贅沢の極みだが、武士の台頭を目の当たりにした貴族たちにとって、明日への不安や死への恐怖があったのは間違いない。この雲中供養菩薩たちを見ていると、とても楽しくなってくる。僕だけのために、踊りや音楽を奏でてくれたらいいのになぁと感じないでもない。

大日如来像(円成寺) 大日如来像(円成寺)
大日如来の仏像はそれほど好きではない。造形的に、それほど興味が持てないのだ。しかし、この、円成寺の大日如来像は別。運慶の最高傑作との呼び声も高い像だが、なんと言っても、像が少年なのがいい。凛々しく、若さの息吹が伝わってくるうえに、生意気な自信すら感じられる。それでいて、神々しいありがたみを感じることも出来る。滅多にあることではない。

薬師如来像(神護寺) 薬師如来像(神護寺)
樹の霊力を像に取り込んだ、一木丸彫像。身体はねじまがり、太腿は異様な盛り上がりを見せている。均衡や写実とは無縁の造形を生み出しているのは、深く洗い彫りである。病を払う薬師如来の、ある極点の表現を示す傑作だろ う。

五大明王像(醍醐寺) 五大明王像(醍醐寺)
檜材の一木造りで、アーリア系らしい、長く伸びる手足の構えが迫力に満ちている。巨大な眼を見開き、長い牙をむき出しにして怒りにひきつる顔面が強いインパクトを与える。歩行する水牛に坐す大威徳明王の姿が異彩を放っている。あの水牛の眼は、どこを見据えているのだろうか。退蔵界か?金剛界か?

千二百羅漢像(愛宕念仏寺) 千二百羅漢像(愛宕念仏寺)
釈迦の弟子となり、仏教を広め伝えた僧たちのことを阿羅漢と呼び、親しみを込めて羅漢と呼ぶ。釈迦の涅槃寺に立ち会った羅漢の数が500人、その百年後に新たに700人の羅漢が集結し、仏教を正しく伝えるための勉強会を開いた。そのことから、千二百羅漢という呼び名が定着した。愛宕寺では、寺の復興を祈願して、参拝者に1200体の羅漢像を彫ってもらった。したがって、これらの像は、仏師の手になるものではない。しかし、魂が入っていれば、それは立派に仏像になりうるのだ。

五百羅漢像(石峰寺) 五百羅漢像(石峰寺) 五百羅漢像(石峰寺) 五百羅漢像(石峰寺) 五百羅漢像(石峰寺)
伊藤若冲の晩年の作。

不動明王像(善願寺) 不動明王像(善願寺)
京都の善願寺にある樹齢千年の御神木には、現代を代表する仏師・西村公朝さんが、一心不乱に一日で彫りつけた不動明王が鎮座している。大木に直接仏像が彫り込まれたというのは他に聞いたことがないが、あるのだろうか。彫りかたによっては木を枯らしてしまうので、生木への彫刻はとても難しいはずだ。西村氏は植物の専門家とタッグを組んで制作に挑んだという。
この神木が元気に生きているだけに、幹に彫られて生命の一部となった不動さまの存在感は、そら恐ろしいものがある。彫られてから半世紀が経ち、周囲の皮が不動を取り込みはじめている。あと100年もすれば、不動明王は完全に樹のなかに隠れてしまうらしい。いつの日か、この神木が伐られるとき、不動明王が姿を現す。すごい話である。

畿内

十一面観音像(渡岸寺) 十一面観音像(渡岸寺) 十一面観音像(渡岸寺)
笑っている。十一面観音とは、人々のさまざまな苦難に対応するためにすべての方向に顔を向けた観音で、変化観音のうちもっとも早く考え出された。頭部に十一の顔を表し、それぞれ人々の苦しみを救う力を秘めている。11個の顔ですべての方向を見つめ、苦しんでいる人を一人でも多く発見し、救い出そうとしている。十一面観音の最大の肝は後頭部の暴悪大笑面にある。悪事を笑っているのだ。邪悪なものを打ち倒す力は、笑いが一番ということか。この寺は観音様の後頭部にある暴悪大笑面を拝観者が鑑賞出来るように、観音様の背後に通路があるうえ(普通は仏の背後にまわりこめない)、わざわざ大笑面にスポットライトを当てている。

阿修羅像(興福寺) 阿修羅像(興福寺) 阿修羅像(興福寺)
興福寺には将軍万福の手による八部衆と十大弟子がおり、その中央に阿修羅がいる。この乾漆像の魅力は、やはり整った顔立ちとリアルな表情にある。凛々しい少年の澄んだ瞳の奥に、憂いの色が見てとれる。この、悲しそうでもあり苦しそうでもある表情が、見る人の眼を捉えて離さないのだろう。とてもエロティックな像だ。

技芸天立像(秋篠寺) 技芸天立像(秋篠寺) 技芸天立像(秋篠寺)
頭部は奈良時代末の脱活乾湿造、体部は鎌倉時代に補われた木像だが、頭部と体部がなじんでいて、特に違和感はない。非常に美しい顔立ちだが、不思議とエロティックではない。また、エロティックではない仏像というのも、非常に珍しい。腰を少しひねってはいるが、柔和な女らしさを漂わせている。どちらかというと西洋の彫像に似ている印象を与える。他のどんな仏像とも似ていない、個性的でオリジナリティのある像だが、放っているオーラはただ者ではない。

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