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神泉苑
神泉苑

王権としての庭

京都のルーツ

京都は神泉苑から生まれた。
今から数万年前、現在の京都盆地は湖であったといわれている。いつしか水が干上がり、湖底として残ったのが神泉苑ではないか、と、地質学者はいう。いわば、神泉苑は京都の太古の湖水をとどめたルーツなのだ。京都の、最古の自然的遺物である。
現在の京都の街のルーツは、いうまでもなく、桓武天皇が造った平安京にある。桓武天皇は、都を開いた6年後の800年には早くも神泉苑を訪ね、舟遊びに興じている。そのあとを継いだ平城天皇も数回行幸し、以後、代々の天皇も神泉苑に詣でることを恒例とした。
『捨芥抄』には、神泉苑に乾臨閣と呼ばれる正殿があったとあり、また平安京の設計者である巨勢金岡がその庭の石組みを造ったとある。この他、釣殿、滝殿があり、貴族のための庭園形式である寝殿造系庭園であったことがわかる。
当時の規模は、東は大宮、西は壬生、北は二条、南は三条に到る、東西二町南北四町という広大なもので、平安京大内裏の禁苑であった。

朝廷の権威を表す

一方、神泉苑は京都御所のちょうど裏鬼門(鬼門=東北の正反対にある西南の方位。鬼門の次に嫌われる)にあたり、古くから儀式に用いられる神聖な場所とされてきた。京都で夏の入りに行われる祇園祭は、もともとは御霊会と呼ばれ、夏場に蔓延する疫病が怨霊の仕業とされたため、それを封じる目的を持っていた。神泉苑はその名のとおり、泉の湧き出す庭であり、御所の裏鬼門にあたることから、泉から魑魅魍魎が吹き出し疫病をもたらすと考えられ、従来は祇園祭の山車が神泉苑までやって来たという。
古図によれば、神泉苑はその様相を年代によって大きく変化させており、1117年頃の図では、泉は池の鬼門の大榎の下から湧き出しているが、1457年の図では、中島が拡大し、泉がなくなっていることがわかる。吹き出す泉の量によって、庭園が時代により大きく変化したのだ。
平安京の鬼門の比叡山に延暦寺を建てさせて国家鎮護としたのも桓武天皇であったが、同様に神泉苑を裏鬼門の守護として、祇園祭とはまたべつに朝廷の儀式に用いたといわれている。
池中に善女竜王を祀って、祈雨の霊験をもって知られ、弘法大師空海が西寺の守敏大徳と請雨法を修してその技を競い、守敏の呪力を破った。京都を大干ばつが襲うたびに祈雨の儀式が繰り返し行われたのである。
また、宮廷は春秋の儀式のみならず、特に重陽(9月9日)の節句に菊花を賞して群臣に賜宴が行なわれることを行事としていた。いわば、内裏とともに朝廷の権威を表す王権としての庭とでもいうべき場所であったことがわかる。
現在は、当初の建物はひとつとして現存せず、徳川家康がこの地に目をつけ、自らの居城である二条城の池庭に取り込んでしまったことから、規模も10分の1以下に縮小してしまっている。しかし、貴族のための庭園形式である寝殿造系庭園の最古の遺構として、きわめて貴重な存在であることは間違いない。

ルイス之印

■神泉苑
京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166
拝観/9:00-日没 無料
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