必ず暗がりがある

自分で撮った莫大小会館のスナップ写真を見返してみると、建物内のどこを撮っていても、必ず暗がりがある。
窓の下、階段の縁、廊下の隅っこ…。
そういう場所には塵やら芥やらが溜まりやすいが、それだけじゃなく、暗がりなので妖精や妖怪が棲みついてもいる。
そこには人知が及ばない。(だから塵や芥が溜まる)
この、生活圏内に「暗がり」=人知の及ばない場所がある、というのは、心が落ち着く。
むかしのビルに心地よさを感じるのはなんでやろ?と考えてみたら、そんなことを思った。

翻って、今の建築物には、そういう場所がない。
一隅たりとも闇はつくらない!と意気込んで全面積を光で満たしているような今の建築物は、全面積を管理下に置きたがっているようで、自然を征服の対象とするキリスト教的自然観に似て、ちょっと息が詰まる。逃げ場がないようなかんじ。
最澄さんの『一燈照隅』は、変なかたちで実現されている(笑)

人知の及ばない場所がある、という「余白」を残した建築は、それだけで、その空間に奥行きを与えてくれる。
人のつくったものの背後には人の手の及ばないものがひろがっている、という考えでつくられたものは、人の分をわきまえているぶん、豊かな気がする。

光のなかに暗闇の一隅があり、それゆえに妖怪や妖精が棲息できているというのは、豊かさの証だ。
目に見えないもの、文化、物語…、どう呼んでもいいけれども、そういうものが隅っこに存在していることが豊かなのだと、僕は思っている。
陰影礼賛とは、そういうことではないのか?
琉球のキジムナー、奄美のケンムン、アイルランドのレプラコーン、トトロのまっくろくろすけらは、みな、ほの暗い場所に棲む。で、彼ら彼女らがいなくなると、のっぺりと、つるんとした、貧相な場所になる。
昨日今日建てられた建築物がつまらなく貧相に見えるのは、そういうことなのだと思う。

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