アパッチ族からクッ、深沢潮まで

先月、陸奥さんの大阪まち歩き大学で大阪城の東側、アパッチ族の強者どもの夢の跡を逍遥したのをきっかけに、開高健の『日本三文オペラ』を再読している。アパッチ族を題材にした、ピカレスク・ロマンである。猥雑で汚く、粗野で野放図だが人間存在の業を背負っているがゆえに宿命的に悲しい生命力が全編を覆っており、開高大兄を開高大兄たらしめている比喩隠喩も炸裂しまくりで、滅法おもろい。
物語中、終戦前後の大阪砲兵工廠の底抜けのスケールのデカさが、描かれている。
3つの大工場と兵器研究所と技術者養成所を持つ大阪砲兵工廠の建坪は12万坪という広大さで、播磨、枚方、石見江津にそれぞれ傘下の工場を持っており、薬莢、弾丸、小銃、大砲、戦車、軍用車両など、ほとんど兵器全種を製造していた。
明治12年から昭和20年の敗戦まで、66年かかって築き上げたこの拠点では、敗戦の年には約7万人の人間が働いていた。
数回の爆撃によって破壊されたが、その最後の決定的壊滅は終戦宣言発布の1日前、しかも白昼、すさまじい攻撃によって全滅した。
戦後、この廃墟は賠償指定物件となってアメリカ軍に接収され、使用可能の兵器と資材が処理されたが、昭和27年の講和条約で返還されたとき、それでもなお、3万台にのぼる機械残骸があり、それらを含む廃墟全体が国有財産となり、近畿財務局が管理することになった。
夜な夜な、官憲の目を盗んで、これらの兵器、鉄屑をパクったのが、アパッチ族である。
そのスケールはすさまじい。
年間にわずか30万円の人夫代でじつに2000万円という巨額のスクラップが回収され、やがて朝鮮戦争がはじまると、古鉄はトン当たり3万円から10万円に跳ね上がり…。どんな商売かと思うほどの儲け、利益率(笑)
そのアパッチ族の主力を占める一派が在日コリアンで、彼らが命懸けでパクった鉄屑は、海の向こうで祖国を分断する戦いに使用されるというパラドックスは悲劇としか言いようがないが、生きるということは、そういうことでもある。ということが、開高大兄の密度の濃い描写のなかで炙り出される。
35年ぶりに再読して、心に引っかかってくるポイントは35年前と今回とでは違っていたが、引っかかりがいくつもあるという意味でも、今もって質の高い小説やと思う。
その流れで、梁石日の『夜を賭けて』も再読する。すでに手元になかったので買い求めたら、なんと絶版になっていた。昭和46年に文庫収録された『日本三文オペラ』は未だ健在で、平成9年に文庫化された梁石日の『夜を賭けて』が電子書籍のみなのは、幻冬社の傲慢やと思うな。梁石日の『夜を賭けて』はアパッチ族の当事者側から書かれた小説として、残しておかなあかん作品のはずである。
大阪砲兵工廠やアパッチ族の生態を知るという点では、『夜を賭けて』は『日本三文オペラ』に引けを取らない。生き延びるために屑鉄を掘り起こし、警官隊と死闘を繰り広げるさまは、どちらの作品もスリル満点のアクション映画を観るようである。
『夜を賭けて』では、その後のことが描かれる。死闘の果てに壊滅したアパッチ族とその後に収監された長崎の大村収容所での特異な生活が詳細に描かれ(そもそも大村収容所の特異な位置付けよ!)、徳田球一と共産党が登場し、北朝鮮への帰国事業、「北組」「南組」の対立とセクト主義、生野の親子爆弾事件などに触れ、やがて時空を飛び越え、大阪城公園に姿を変えた彼の地でのワンコリア・フェスティバルで句点が打たれ、戦後50年が総括される。
物語中、風景のひとつとして、「クッ」が登場する。
「クッ」は、これまた先月の陸奥さんの大阪まち歩き大学で桜ノ宮から京橋までを逍遥した折、大川の源八渡周辺にかつてあったバラック群のひとつ「龍王宮」で執り行われた済州島の宗教儀式としての「クッ」を教えてもらい、それ以来、心に留めていたもののひとつだった。
「クッ」は、悪霊祓いの儀式として、読経、占い、舞、お祓い、撒酒、撒米、冥銭を燃やす、豚を食べる、供物を川に流すなどのイニシエーションが三日三晩、ムーダン(巫女)によって執り行われる。そういう様子が、『夜を賭けて』に登場する。調べてみると、梁石日は済州島の出身者のようである。
アパッチ族と「クッ」がつながり、大阪城公園から京橋を経て桜ノ宮までが、僕のなかで一気通貫でつながった。
時期を同じくして読んでいたのは、深沢潮の一連の著作。未知の作家だったが、ソウルフラワーユニオンの中川くんが激しく薦めていたので、手に取った。深沢さんは、在日コリアンの両親を持つ。アパッチ族といい、「クッ」といい、大阪を深掘りしていくと、あたりまえだが、コリアンと大阪の深い関係が浮かんでくる。
『海を抱いて月に眠る』『ひとかどの父へ』は、どちらも、深沢さんのお父さんと思われる人がモデルで、父のルーツを知り、自分は何者なのかと思春期らしい心の揺れがあり、民族性と近代政治を背景としながらも、どこにでもある思春期の自分探しの物語に着地させることで、このテーマにありがちな過剰な重さが払拭されている。重さも陰影もあるけれども、どこか軽さがあるのが深沢さんのいいところで、その軽さが読後に深い感動を与えてくれる。
深沢さんのこの傾向は、『縁を結うひと』『緑と赤』でより一層露わになる。
在日の縁談を仕切る金江のお見合いおばさん、子どもの1歳を祝うトルチャンチでの各家の見栄の張り合い、ヘイトスピーチと韓流スターにハマる良美おばさん…、運命に翻弄される大河小説ではなく、悲喜交交が繰りひろげられるホームドラマのようなさっぱりとした軽さが、より理解を深める手助けをしてくれている。
開高健から深沢潮まで、先月今月は、そういう本をたくさん読んでいる。

先月、陸奥さんの大阪まち歩き大学で大阪城の東側、アパッチ族の強者どもの夢の跡を逍遥したのをきっかけに、開高健の『日本三文オペラ』を再読している。アパッチ族を題材にした、ピカレスク・ロマンである。猥雑で汚く、粗野で野放図だが人間存在の業を背負っているがゆえに宿命的に悲しい生命力が全編を覆っており、開高大兄を開高大兄たらしめている比喩隠喩も炸裂しまくりで、滅法おもろい。
物語中、終戦前後の大阪砲兵工廠の底抜けのスケールのデカさが、描かれている。
3つの大工場と兵器研究所と技術者養成所を持つ大阪砲兵工廠の建坪は12万坪という広大さで、播磨、枚方、石見江津にそれぞれ傘下の工場を持っており、薬莢、弾丸、小銃、大砲、戦車、軍用車両など、ほとんど兵器全種を製造していた。
明治12年から昭和20年の敗戦まで、66年かかって築き上げたこの拠点では、敗戦の年には約7万人の人間が働いていた。
数回の爆撃によって破壊されたが、その最後の決定的壊滅は終戦宣言発布の1日前、しかも白昼、すさまじい攻撃によって全滅した。
戦後、この廃墟は賠償指定物件となってアメリカ軍に接収され、使用可能の兵器と資材が処理されたが、昭和27年の講和条約で返還されたとき、それでもなお、3万台にのぼる機械残骸があり、それらを含む廃墟全体が国有財産となり、近畿財務局が管理することになった。
夜な夜な、官憲の目を盗んで、これらの兵器、鉄屑をパクったのが、アパッチ族である。
そのスケールはすさまじい。
年間にわずか30万円の人夫代でじつに2000万円という巨額のスクラップが回収され、やがて朝鮮戦争がはじまると、古鉄はトン当たり3万円から10万円に跳ね上がり…。どんな商売かと思うほどの儲け、利益率(笑)
そのアパッチ族の主力を占める一派が在日コリアンで、彼らが命懸けでパクった鉄屑は、海の向こうで祖国を分断する戦いに使用されるというパラドックスは悲劇としか言いようがないが、生きるということは、そういうことでもある。ということが、開高大兄の密度の濃い描写のなかで炙り出される。
35年ぶりに再読して、心に引っかかってくるポイントは35年前と今回とでは違っていたが、引っかかりがいくつもあるという意味でも、今もって質の高い小説やと思う。
その流れで、梁石日の『夜を賭けて』も再読する。すでに手元になかったので買い求めたら、なんと絶版になっていた。昭和46年に文庫収録された『日本三文オペラ』は未だ健在で、平成9年に文庫化された梁石日の『夜を賭けて』が電子書籍のみなのは、幻冬社の傲慢やと思うな。梁石日の『夜を賭けて』はアパッチ族の当事者側から書かれた小説として、残しておかなあかん作品のはずである。
大阪砲兵工廠やアパッチ族の生態を知るという点では、『夜を賭けて』は『日本三文オペラ』に引けを取らない。生き延びるために屑鉄を掘り起こし、警官隊と死闘を繰り広げるさまは、どちらの作品もスリル満点のアクション映画を観るようである。
『夜を賭けて』では、その後のことが描かれる。死闘の果てに壊滅したアパッチ族とその後に収監された長崎の大村収容所での特異な生活が詳細に描かれ(そもそも大村収容所の特異な位置付けよ!)、徳田球一と共産党が登場し、北朝鮮への帰国事業、「北組」「南組」の対立とセクト主義、生野の親子爆弾事件などに触れ、やがて時空を飛び越え、大阪城公園に姿を変えた彼の地でのワンコリア・フェスティバルで句点が打たれ、戦後50年が総括される。
物語中、風景のひとつとして、「クッ」が登場する。
「クッ」は、これまた先月の陸奥さんの大阪まち歩き大学で桜ノ宮から京橋までを逍遥した折、大川の源八渡周辺にかつてあったバラック群のひとつ「龍王宮」で執り行われた済州島の宗教儀式としての「クッ」を教えてもらい、それ以来、心に留めていたもののひとつだった。
「クッ」は、悪霊祓いの儀式として、読経、占い、舞、お祓い、撒酒、撒米、冥銭を燃やす、豚を食べる、供物を川に流すなどのイニシエーションが三日三晩、ムーダン(巫女)によって執り行われる。そういう様子が、『夜を賭けて』に登場する。調べてみると、梁石日は済州島の出身者のようである。
アパッチ族と「クッ」がつながり、大阪城公園から京橋を経て桜ノ宮までが、僕のなかで一気通貫でつながった。
時期を同じくして読んでいたのは、深沢潮の一連の著作。未知の作家だったが、ソウルフラワーユニオンの中川くんが激しく薦めていたので、手に取った。深沢さんは、在日コリアンの両親を持つ。アパッチ族といい、「クッ」といい、大阪を深掘りしていくと、あたりまえだが、コリアンと大阪の深い関係が浮かんでくる。
『海を抱いて月に眠る』『ひとかどの父へ』は、どちらも、深沢さんのお父さんと思われる人がモデルで、父のルーツを知り、自分は何者なのかと思春期らしい心の揺れがあり、民族性と近代政治を背景としながらも、どこにでもある思春期の自分探しの物語に着地させることで、このテーマにありがちな過剰な重さが払拭されている。重さも陰影もあるけれども、どこか軽さがあるのが深沢さんのいいところで、その軽さが読後に深い感動を与えてくれる。
深沢さんのこの傾向は、『縁を結うひと』『緑と赤』でより一層露わになる。
在日の縁談を仕切る金江のお見合いおばさん、子どもの1歳を祝うトルチャンチでの各家の見栄の張り合い、ヘイトスピーチと韓流スターにハマる良美おばさん…、運命に翻弄される大河小説ではなく、悲喜交交が繰りひろげられるホームドラマのようなさっぱりとした軽さが、より理解を深める手助けをしてくれている。
開高健から深沢潮まで、先月今月は、そういう本をたくさん読んでいる。

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