がんちゃんさんのエントリで教えていただいて、京都のレティシア書房まで『メトロリスボン』を求めに行く。Amazonでも買えるけど、久しぶりにレティシア書房にも行きたいし、本の刊行記念写真展もやってるということで。写真展会期ギリギリに。
僕がリスボンを訪れたのは25年くらい前で、その頃はポルトガル全体が停滞していて、長い黄昏のなかにあるようだった。なんだか老人ばっかりだったし、人々の足取りもスローだった。
ポルトの外れに中国人のオッサンが中華鍋を振るう中華料理屋さんがあって、話をすると、上海からやって来たというオッサンで、ユーラシア大陸の東端からなにを思ったら西端のポルトまで流れてきて店を出すに至ったのか聞きたかったのが、考えてみたら、僕とて、ユーラシア大陸の東端のさらに東の大阪から西端のポルトまで流れ着いているわけで、あんまり人のことは言えんわなと、黙って、火会菜(八宝菜)を食っていた。
それ以外は、僕はファドばっかり聴いていた。それにしたって、哀愁と郷愁と黄昏の音楽だ。
つまるところ、僕の知るポルトガルとは、成熟しきった、「終わりなき日常を生き」(©︎宮台真司)ている真っ只中の国で、少なくとも、この本『メトロリスボン』にあるようなアートに彩られた光あふれる場所ではなかった。
1990年代からこっち、リスボンの地下鉄の駅は、めくるめく美しいタイルアートで敷き詰められているらしい。それを可能にしているのは、それこそ「終わりなき日常を生き」なければならないほどに成熟し切った分厚い文化が背景にあり、さらにそれらがきちんと今も生きてのことだ。
草間彌生のアート作品もあるし、宗教画や移民文化をモチーフにしたもの、伝統アートから現代アートまで、じつにさまざまな表現がアズレージョ(タイル)アートとなって、駅構内に敷き詰められている。
これを見ていると、御堂筋線の梅田駅はなんとかならんのか?と思う。数年前の迷走を経て、なお、なんとかならんのか?と思うけどな。
ここに並ぶことのできるのは、動物園前駅のタイルくらいな気がする。
アズレージョのモチーフは所有者の教養の高さを示しているとポルトガルでは言われている。
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