大阪停車場設置計画の変遷

大阪ターミナルビル株式会社が2003年(平成15年)に発行した『大阪駅の歴史』に、初代大阪停車場(大阪駅)が実際に設置された梅田の現在の場所と、元々の堂島設置案の地図が載っていた。
陸軍測量図より作成したとある。

大阪停車場は、よく知られているように、当初、堂島に設置する案で進んでいたものが梅田に変更されたという経緯がある。

大阪停車場の設置条件としては
1)大阪市内に位置し、将来は新しい玄関とするのに適している。
2)商工業の中心地に近い。
3)市内交通との連絡が良い。
4)東海道・山陽道の幹線が近くにある。
5)新興地で土地がまとまっており安価である。
6)港に近く建築資材が運びやすい。
7)京都・神戸方面から進入しやすい。
8)大河川などの障害物を避け、最短ルートを選定できる
だったそうだ。

当時鉄道は海のものとも山のものともわからない怪物で、しかも途方もない巨額の資金を要するものだという認識が強かった。
なので、鉄道建設のための膨大な建設資材を搬入するのには、当時のメイン物流手段である水運に頼るのが最適だった。
大阪では当時、安治川や堂島川畔が港としての機能を果たしていたので、大阪停車場は堂島川北岸に予定されていた。(地図のグリーンエリア)
このあたりは江戸時代の諸大名の藩邸がたくさんあったところで、明治維新で大名制度が廃止になり、不要になった家屋がたくさん残っていたのだ。したがって、まとまった用地の取得が可能だった。
さらに、堂島は商業の一等地だし、神戸方面からも最短コースにあった。(最初のコースは大阪 – 神戸間)
堂島は、上記の(1)から(8)まで、概ね要件を満たしていた。

これが頓挫したのは、
「まちの真ん中に火の車が走るといつ火事になるかわからへん。そんな危ないのんはかなわん」と、船場あたりの旦那衆が大反対したため。

そこで、梅田設置案が登場する。
ただし、このような要因以前に、元から梅田を推す声は当初からあった。『大阪駅の歴史』では、そのことに触れられている。
将来を考えると、大阪停車場はヨーロッパによく見られる終端駅(ターミナル)形式にするのではなく、通過駅形式にしたほうがいいという考えがすでにあった。
梅田案なら、用地買収の面から、通過駅形式にすることに問題はない。
しかし、堂島案では、京都方面に向かうには、堂島浜通から堂島の市街地の真ん中や曽根崎村、北野村を通り抜けなければならず、用地確保の面からかなりの家屋の立ち退きを敢行する必要があり、できたらやりたくない。堂島一帯は古くからの米仲買・両替屋さらに遊郭も軒を連ねる既成市街地なので、このあたりを買収して立ち退かせるのには、当時の強い公権力といえど難しいのではないかという予測もあった。
したがって、終端駅なら堂島案でもいいが、通過駅形式なら梅田案がよりベターということになる。(地図の赤線が堂島・終端駅案、青線が梅田・通過駅案)
2つの路線計画案を比べた変遷図が、広域図と拡大図と2種ある。

つまり、当初の終端駅案ではなく通過駅形式案が浮上し、それなら、用地買収の面から堂島案よりも梅田案がよりベターだとする考えが大勢を占めつつあるなかで、反対運動が変更を後押しした、ということだ。

そうやって停車場建設地に決まった梅田は、堂島から約600メートル北東に位置する大阪の市域外で、地名も「摂津国西成郡第三区七番組曽根崎村大字天童」という田園地帯だった。(地図のピンクのエリア)ちなみに、地図の桜橋や出入橋の位置を見るとわかるが、停車場は、現在よりも西側に設置された。これは、四つ橋筋が当時のメイン・ストリートだったから。御堂筋はまだ、細い細い路地のような道だった。
買収した用地の西端には、大阪七墓のひとつ梅田墓があった。昨年8月、うめきた2期区域内の工事で1500体以上の人骨が見つかったとのニュースが流れたが、その場所がここだ。(地図のオレンジのエリア)梅田は、元々が湿地帯で、泥土を埋め立てて田園地帯としたので、「埋田」と呼ばれており、墓と田畑がひろがる田園地帯だった。(宮本又次『キタ』には、梅田宗庵という人の所有地であったとする説も紹介されている)

かくして、1874年(明治7年)、大阪停車場(初代大阪駅)が完成、開業する。「梅田ステンショ」とハイカラな語感で呼ばれることが多かった。
造レンガ張りの洋風建築で、壁の四隅は隅石によって飾られ、日本瓦葺切妻屋根の破風には特徴的な紋章装飾が施されていた。
駅前には広場と築山が設けられ、駅構内には、2等と3等の待合室が区別(1等は?)されている。貨物と旅客のホームも分けられていた。(開業当初は旅客のみ)
外観写真は、数年前の大阪駅桜橋口中2階通路に展示されていたものから。
1877年(明治10年)には、蜆川から大阪停車場まで梅田入堀が開削され、鉄道と水運との連絡が図られた。その後、梅田入堀はすぐに蜆川からより大きな堂島川まで延伸された。(貨物駅が設置され、梅田入堀がさらに北へ延伸されるのは、もう少し後)

結果的に、ど真ん中ではなく、中心地から少し外れた近いところに設置することで、大阪駅は「玄関口」になった。
しかも当時としてはかなり広大な土地が買収されており、これが今日の大阪駅の構内敷地の基本となっている。
それでも、明治も末期になると手狭になり、貨物駅が分離され、梅田貨物駅の新設につながっていく。
鉄道創設時は、旅客よりも貨物輸送のほうが重要で、堂島川の水際から内陸部に駅の建設予定地が移ったために、堂島川から梅田の停車場まで艀(はしけ)が入れる割掘と貨物の積み降ろしをするドッグが建設された。(地図のブルーのエリア)

以上が、大阪停車場が梅田に設置されるまでのプロセス。
現在の大阪駅と梅田の発展は、このときの決断による。

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