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二条城
■所在地 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 ■tel 075-841-0096  ■拝観料 600円 ■拝観時間 9:00-17:00 ■HP http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/ ■アクセス 市バス (系統B1、B2、9、50、101) 二条城前下車徒歩スグ 地下鉄二条城駅前下車徒歩スグ ■建築 本丸御殿、天守閣跡、本丸櫓門、東大手門、二の丸御殿、式台、二の丸庭園、本丸庭園、番所、唐門、他多数 ■宝物 青楓図襖絵、葡萄図襖絵、竹林群虎図襖絵、雪中柳鷲図襖絵、他多数 
襖絵に浮かぶは桃山文化の真髄
城は城なのだが、姫路城や熊本城などのように、戦闘時のことを最優先して造られた城ではなく、徳川家康が上洛時に利用する宿泊処として1603年に造営された城である。したがって、いかめしい面構えよりも、二の丸御殿や唐門など数々の趣向を凝らした装飾が目立つのが特徴。また、二の丸御殿には、大政奉還が行われた大広間などの歴史上の貴重な舞台が残っているほか、狩野派に代表される桃山芸術の粋が凝縮されている。二条城は、日本の封建的な時代に生まれた華やかな文化が詰まっていると言えるだろう。
二条城
1.本丸御殿 本丸を大火で称したため、京都御所にあった旧桂宮御殿を明治27年 (1894年) に移築。江戸時代後期の宮御殿の遺構として完全なかたちで残っている唯一の建物で、国の重要文化財に指定されている。本丸御殿南側の一帯にひろがる庭園は明治時代に作庭されたもので、質素な趣を感じる庭園となっている。その西南隅にはかつての天守閣跡が残され、場内全体を見わたすことが出来る。
2.天守閣跡 寛永3年 (1626年) に三代目将軍徳川家光により増築された天守閣。当時は5層の天守閣が聳え立っていたが、寛延3年 (1750年) の落雷より焼失。本丸御殿も天明8年 (1788年) に大火による類焼で全焼してしまった。
3.本丸櫓門 後水尾天皇が行幸される際に造営された櫓門。本丸の正面にあたるこの櫓門と二の丸御殿の黒書院とは、かつて橋廊下という長屋風の建物で連結されていた。しかし、こちらも本丸御殿と同様に、天明8年 (1788年) の大火により焼失。現在の本丸と内濠をつなぐのは東橋で、鯉が泳ぐのどかな風景がひろがっている。
4.大広間 将軍が外様大名に対面するための部屋で、その権威を示すかのように、もっとも豪華につくられている。なお、大政奉還が行われたのも、この広間だった。
5.黒書院 二の丸御殿の奥御殿に、黒書院と白書院が対を成して存在している。将軍に近い親藩大名や譜代大名が対面するのが黒書院。
6.白書院 将軍の居間と寝室の役割を果たしたのが白書院である。
7.東大手門 堀川沿いで、二条城の入口にあたり、勇壮な櫓を構えた門である。今でこそ重厚な造りを誇る城門となっているが、後水尾天皇の行幸のときには櫓はなかった。人が載るこの形式では天皇に対して恐れ多いという理由から、そうなったという。その後は現在とおなじ櫓門に改築されている。
二条城
(左から時計まわりに)
池泉回遊式の二の丸庭園。大小様々な石組により、力強さを表現している→東南隅櫓→東大手門→桜の季節にはライトアップがある→狩野探幽筆の障壁画
狩野派で埋め尽くされた二の丸御殿の大広間
二の丸御殿の見どころは、なんといっても襖絵だ。桃山文化をもっとも色濃く繁栄した雄大な絵画は、狩野派の作品でほぼ埋め尽くされている。直射日光などによる傷みを避けるため、照明はかなり暗く見づらい。遠侍の間には虎と豹が描かれた「虎の間」なるものもある。ちなみに、ここに登場する動物たちはほとんど想像で描かれており、毛皮から姿かたちを創造したのだそうだ。ほかに、松鷹図や桜図などの障壁画が1000枚以上も描かれている。
遠侍にある竹林群虎図
遠侍にある竹林群虎図
式台にある雪中柳鷲図
式台にある雪中柳鷲図
大政奉還の舞台となった大広間
攘夷派と開国派が鋭く対立するなか、慶応3年 (1867年) にこの部屋に集められた諸大名に告げられた勅使こそ、大政奉還だった。政を朝廷に返すということを示し、それは江戸幕府265年の終焉を意味する出来事であり、歴史が大きく動いたエポックメイキングな場所でもある。この二条城の大広間の一の間は将軍が外様大名に対面した部屋で、その権威を示すかのようにもっとも豪華につくられた部屋でもあった。そして、皮肉にも、この部屋で徳川幕府は最後のときを迎えたのである。
大政奉還の様子
大政奉還の様子
障壁画で埋め尽くされた大広間
障壁画で埋め尽くされた大広間
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