『れるられる』

『れるられる』

今日は、談話室マチソワで月イチ開催の「Bibliophile’s Cafe(本を紹介する会)」に参加。
だいたいは、そのときに読んでいる本を持っていって紹介する。
今回は最相葉月さんの『れるられる』。
最相葉月さんはノンフィクション・ライターで、丁寧な取材を重ねて、秀逸なノンフィクションをいくつも世に送り出した人だ。デビュー作は『青いバラ』。まだ存在していなかった青い薔薇の開発物語をルポしたこの本は、めっぽうおもしろかった。
有名なのは『絶対音感』。絶対音感というものを持つ人が世にいるのだということを世間に知らしめたのは、彼女の功績だ。
最近は、生命医学やメンタルヘルスの分野で、いくつかのノンフィクションをものにしている。
『れるられる』は10年前に出た単行本に、加筆されて、今年の9月に文庫本が出た。

この、『れるられる』は、これだけだと意味がわからないが、目次を見ると、たちまちのうちに理解できる。
「生む/生まれる」
「支える/支えられる」
「狂う/狂わされる」
「絶つ/絶たれる」
「聞く/聞かれる」
「愛する/愛される」
「見守る/見守られる」
この本は、7つの「れる/られる」、つまり、受動と能動についてのエッセイ集なのだ。

「生む/生まれる」は、出生前診断に関する事例を中心に描かれる。
出生前診断の技術が普及したことで、検査自体は比較的気軽に行えるようになった。
でも、その結果(胎児に障害などが見つかった場合)に直面したとき、親は「産む」か「産まない」かという、人生を根底から変えるほどの重い選択を、突然、迫られる。
最相さんは、この選択が、何の心の準備や知識もないままなされることの残酷さを指摘している。
「産まない」選択をした場合、倫理的な葛藤や罪悪感といった精神的な苦しみを背負い続ける。
「産む」選択をした場合、長期にわたる育児の困難、社会との関係、そして「なぜあのとき産むと決めたのか」という問いに直面し続ける。
本来「生まれる」ものだったはずが、今、「生む」という能動に変わったわけだ。
そして、親が能動的に「選択する」という行為が、受動的に「生まれる」はずだった命の運命を決定し、その後の親自身の人生にも深く重い影響を及ぼす現実が、描かれている。

「支える/支えられる」は、人と人の関わりにおける力の関係と、立場が入れ替わる瞬間が描かれている。
災害復興の現場における心理的ケアや、精神的疾患を抱える人々の生活など、社会の中で「支える側」と「支えられる側」という役割が不安定に揺れ動く現実がある。東日本大震災の被災者ケアの現場の話だ。
ある役人は、遺体安置所で悲観に暮れている遺族に対応し、役所に戻れば詰めかけた被災者の要求に応じなければならない。
市民との対話からマスコミ対応、中央官庁との交渉まですべての陣頭指揮を取っていた市の助役は、2年目の春に灯油をかぶって焼身自殺をした。
激烈な、抗議行動とも取れるこの自刃を、どう捉えればいいのだろう?
これを、戦さで死ぬ「戦死」と呼んだ人がいたが、果たして彼には「支えられる」ことが必要なのではなかったか。
災害地の現場で「支える」側にまわっている人たち、役人や自衛隊の人など。彼らは「支える」側にいるけれども、じつは「支えられる」側にいる人でもあり、もっと言えば、「支えられる」ことが必要な人たちであることもある。その境界を、軽々と超えて行き来してしまっている現実が、ある

「絶つ/絶たれる」も、なかなか重い事例が並ぶ。
この章では、終末期医療における「受動と能動」が描かれる。
患者や家族が治療を「絶つ」(やめる)と決断することは能動的な行為だが、それは同時に、患者が「命を絶たれる」可能性を許容するという重い受動を伴う。
どこまで治療を続けるかという選択は、「生かされる」という受動と、「死を受け入れる」という能動が複雑に絡み合う、最も切実な境目であると示される。

こんなかんじで、7つの「れる/られる」をテーマに、エッセイが書かれている。
実在する人物の濃密な人生のエピソードが次々と語られていくなかで、そもそも「生きる」とは、受動なのか能動なのか、あらためて考えさせられる。

ここでワシは、あり得たかもしれない人生について、考えてしまう。ワシは、あり得たかもしれない人生について、しばしば考えることがあるのだけど、この本を読んで、あらためて、そのことについて考えた。
自分で選択したのか、運命が自分に課したのか、分からないような分水嶺についてだ。

ワシはフリーランスで仕事をしているので、休業補償というものがない。つまり、大きな病気やケガをして仕事ができなくなったとき、たちまち収入を絶たれる。
これはある種の恐怖でもあって、なかなか抜けない。
脳梗塞を患ったときにもそのことを思ったし、コロナ禍で仕事がなくなったときにも、そのことを思った。

稼ぎの大小や貯金の多寡とはまったく関係なく、この恐怖は付きまとう。カネがなんぼあったって、関係ないね。
つまり、いつ自分がホームレスになるかもしれない、生活保護を受ける立場になるかもしれないと、だいたい常に思っている。

ホームレスの人や生活保護を受けている人に会ったり取材をしたりする機会もあって、いろいろ話を聞くけれども、特別なことではない。
貯金がなくて、ケガをして2ヶ月仕事を休んだ。すると、家賃が払えなくなる。2ヶ月滞ると、今は、強制的に追い出されることも多い。家賃の滞納保険に入っている家主が多くなってきた今、ビジネスライクに追い出されるケースは多くなった。
バイトや契約社員だったら、2ヶ月も待ってくれるようなところはない。すぐにクビだ。
仕事がなくなった、家も追い出された、住所がなくなった。
住所がないと生活保護が受けられない。もうそれだけでホームレスだ。
そして、ホームレスになると、なかなかそこから抜け出せない。
ネカフェで暮らしてタイミーでバイト? 身体に染みついた臭いをどうするんだ? 服も臭う。洗濯しようにも替えの服がない。百歩譲ってバイトが決まったとしても、問題が山積みだ。
本当にちょっとしたことでホームレスになってしまうのが現代だし、ホームレスになってしまったら、簡単には抜け出せない。
そういう現実を知るにつけ、自分がいつ排除される側に回るかわからんよね、と、思ってしまう。
支える側にいたとして、支えられる側に回ることだって、簡単にあるだろう。

この社会は、ホームレスの人たちに手を差し伸べる人もいるけれども、排除しようとする人もたくさんいる。
でもね、ワシらだって、簡単にホームレスになってしまうんだという想像力があると、簡単に排除なんてできないと、ワシはいつも思う。
自分がいつ排除される側に回るかわからない、その想像力があれば、簡単に排除なんてできないんだよね。

「れる/られる」の境界は曖昧だし、ワシらは、案外と、そのふたつを行ったり来たりする場面に直面するのだという、本だった。

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