そうだったのか!? 北野の歴史

北野地域史「そうだったのか!? 北野の歴史」

このたび、北野の地域史「そうだったのか!? 北野の歴史」を執筆させていただきました。
昨日はそのお披露目のイベントで、旭堂南海師匠に講談を読んでいただいたりと、華やかな春の1日を過ごしたのでした。

ワシは普段、広告・広報の仕事をしています。
同時に、北区の魅力を深掘りするフリーペーパー「つひまぶ」を編集・発行しています。
また、「キタ歓楽街環境浄化推進協議会」という、北野・曽根崎にまたがる歓楽街の防犯を中心としたまちづくりにかかわっています。
どちらも10年以上になります。そんなところから、このたび、この北野地域の地域史「そうだったのか!? 北野の歴史」を書かせていただくことになりました。全76ページ、オールカラーA4変形の豪華版です。

書きはじめてみると、あれも書きたい、これも紹介したいということに加えて、取材やリサーチを進めるなかで、こんなことがあったのかと知らなかったこともたくさんあり、書き進めれば書き進めるほど、紹介しなければならないことがどんどん増えていきました。

当初は、北野の歴史だけでなく、北野に数多く存在する飲食の名店紹介や、まち歩きのモデルコース紹介などのページもつくる計画だったのだけど、歴史だけで全ページを使い切ってしまい、それでも足りなくなったのでした。
北野地域というのは、幾重にも折り重なった歴史があり、あらためて奥行きのある地域なのだなあと感じた次第です。
書かなかったもの、小さくしか扱えなかったものも、いくらかあります。

縄文時代はもとより、古墳時代まで、このあたりは海でした。淀川や大和川が運んできた土砂が積もって湖をつくり、島をつくり、沼をつくり、湿地帯をつくり、現在のような陸地が形成されていった、という場所です。
潮の満ち引きや天候の加減で、陸地が現れたり沈んだりと、地形の変化の激しい場所でした。
今、この北野を含む梅田は、永遠とも思えるほど再開発が繰り返されています。常に新しいものが生まれ、生々流転のまちと呼ぶほかない変化に富んだまちだけど、じつは、古墳時代から、この場所は変化に富んだ場所なんだというところから、北野の歴史はスタートしています。

一般的に、大阪という場所は、太閤さんが城を構えて、商いを中心としたまちの歴史がはじまったと言われています。しかし、もちろん、それ以前にも、語るべき歴史はたくさんありました。

この北野にも、じつは、古くからの歴史がありました。
「兎我野町」の「兎我野」という名前は、日本書紀や古事記にも登場する、古い古い名前です。大阪でも最古の名前のひとつです。
実在したかどうかはっきりと確認されていないくらい古い仁徳天皇の時代に、この「兎我野」で狩りがおこなわれたいう記述が出てきます。

やがて平安時代となり、太融寺と綱敷天神社という、北野を代表する寺社が相次いで創建されます。
太融寺は、日本仏教史最大のスーパースターである空海が創建し、源融公が伽藍を整えました。
源融公は、空海の良き理解者であった嵯峨天皇の皇子です。光源氏のモデルとなった人でもあります。
綱敷天神社は、元は、神野太神宮といい、嵯峨天皇を主祭神としています。その後、菅原道真が立ち寄った縁で「綱敷天神」の名が興りました。
どちらも、嵯峨天皇ゆかりの寺社です。

江戸時代になり、大坂三郷という現在の大阪市の原型のようなものができ、「天下の台所」としてその名を轟かせたとき、北野は、そのすぐ外側に位置する米どころでした。
「北野村」と呼ばれる田畑の広がる場所は、「天下の台所」を支えました。
同時に、円頓寺のような萩の花を愛でる風流な場所があり、お大師まいりの起点であり、寺町がつくられたまちでもあり、仏教都市の一面も持っていました。
堂山町に今も鎮座している金臺寺は、大坂城ができる以前の、蓮如が石山本願寺を築いて織田信長と戦っていた時代に、蓮如の縁でできたお寺です。

さらに時代は下って、北野の歴史が轟音をあげて本格的に動き出すのは、明治に入って、隣に大阪駅ができてからです。
これにより、北野地域は、のどかな農村地帯から一気に近代の荒波に乗り出し、都市化が進んでいきます。
大阪駅の誕生が北野地域に与えた影響は、計り知れません。
市電が走り、阪急や阪神の私鉄のターミナルができ、北野を含む梅田は交通の要衝として、大阪の玄関口となります。
玄関口とは、たとえば船場のような中心に位置する奥座敷と違って、人々が行き交い、出会いと別れの物語が日々生成されるような、やはり変化に富んだ場所です。

また、近代になり大阪は急激に都市化が進み、そのせいで経済格差が生まれ、いわゆる貧民層が出現します。
そうした格差を背景にして、ひとりの任侠の人が立ち上がります。司馬遼太郎の小説「俄」のモデルにもなった小林佐兵衛です。
佐兵衛は、北野の地に、私財を投じて「小林授産場」というホームレスための自立支援施設をつくります。
佐兵衛はこの事業に財産を注ぎ込みすぎて破産するのだけど、佐兵衛の社会福祉事業が先駆けとなって、やがて行政が続き、方面(民生)委員制度や公設市場の創設、天六の市民館の設立へとつながっていきました。時代がそれを要請しました。
そうした、義憤に駆られて社会福祉に燃えた人が、公に先駆けて、全国に先駆けて、この北野に現れたという事実は、北野が誇っていい宝物のひとつです。そのように、書きました。
また、ここでは、古書店「青空書房」の名物店主だった故・坂本健一さんから、最晩年に託された「戦前の扇町公園」のイラストマップを蔵出しすることができ、10年越しの約束を果たすことができました。

北野の歴史を書いていて一番楽しかったのは、高度成長期の出来事です。
堂山町には日本独自のリズム「ドドンパ」を生んだ「クラブアロー」ができ、
梅田の地下に、人類の夢の結晶である地下街「うめチカ」が誕生しました。
阪急東通商店街は新御堂筋によって分断されたけれども、危機を前に商店街は団結し、アーケード設置などの魅力向上に努め、現在の繁栄につなげました。
扇町公園には、国際大会仕様の「大阪プール」ができ、市民の憩いの場となり、
映画「Shall we ダンス」のロケ地ともなった兎我野町の「ダンスホール・ワールド」は、ダンス文化の聖地です。
そして、この時代、堂山町を庭とし、時代の風を一身に浴びていた、名物お好み焼店「美舟」の店主だった故・船橋修治さんが残した手記を載せることができたのは、望外の歓びでした。(登場する数々の店の場所特定が苛烈やった…)
北野のこの時代のことが「歴史化」されたのは、どうやら本誌がはじめてのようです。(どうりで資料が少なかったはずや。。リサーチに苦労しました)
ここをしっかり書けたことは、個人的はとても充実した時間でした。
ワシの筆も乗っていたようで、筆が乗っている!と、制作途中で言っていただいたこともありました。
編集を担当していただいた140Bの中島さんも、ここがキモやな!と、この時代に最も多くのページを割いてくれました。

エネルギッシュな北野の魅力が、この時代にはギュッと詰まっています。
そんな時代を経て、やがてバブル期を迎えます。

日本初のカプセルホテル「カプセル・イン大阪」ができ、
関西インディーズ・ミュージシャンの登竜門ともなった「梅田バナナホール」が登場し、
「扇町ミュージアムスクエア」が小劇場演劇の聖地となります。
この北野からは、阪急が発信するファッショナブルな文化のみならず、新しいオルタナティブなユース・カルチャーが次々と生まれました。
これぞ、「サブ」カルチャーです。

ざっと、かいつまんで紹介しただけでも、じつにたくさんの物語が、この北野にはあります。

太古、北野の地域は海辺で、天候や潮の満ち引きにより、地形が激しく変化する場所でした。
同様に、明治に鉄道が敷かれて以降、この場所は再び変化の激しい場所となりました。
バブル期を経て平成から令和にかけて、この北野を含む梅田は、永遠とも思える再開発を繰り返しています。
昨日まであった建物が取り壊されると、それまでには何が建っていたのか、もう思い出せないほどです。
変化は激しいけれども、常に生まれ変わっている、生々流転のまちが北野なのではないかと、そんなふうに思います。
それこそが北野のDNAだと言えるかもしれません。
北野の地域史「そうだったのか!? 北野の歴史」には、そんな北野が紡いできた変化の歴史が、たっぷりと詰め込まれています。

ワシが長々と思いの丈を詰め込んだテキストを、編集担当の140Bの中島淳さんが丁寧に腑分けし、成形し、整え、再構築し、それをデザイナーの山口良太さんが、詰め込んだ情報が過不足なく読者に伝わるように整理整頓し、かつカッコよくシンプルに、デザインしてくれました。さらに、奈路道程さんの味のあるイラストが、ワシのテキストを強力に援護射撃してくれています。なんちゅー贅沢。至福!

三位一体、もとい四位一体でつくりあげる作業はとても楽しいものでした。
途中、お約束のように、つまらん壁やら関所やら溝やらダートやらがあったりもするのだけど(ありがちな話やね)、大切なものを何ひとつ失うことなく、この仕事を健全に全うできたのは、この四位一体だったからこそやと思っています。

監修は、「大阪あそ歩」の認定ガイドの酒井裕一さんです。さすがの博識で、間違いを指摘していただいたり、ご助言をいただいたりしました。

編集委員長を務められた北野連合振興町会長の植松光德さん、北野地域活動協議会会長の福西和也さん、委員の麻生祥光さん、門谷光瑞さん、佐藤勧行さん、白江秀知さん、藤野雅文さんらの、北野の錚々たる面々。
北野の地域の方々は、こんなワシをいつも快く受け入れてくれます。
それはやっぱ、出会いと別れの物語が日々生成される大阪の玄関口にて暮らしてこられた北野の方々が培ってきた、オープンマインドのなせる技だと、感謝しています。
よそ者のひよっこは引っ込んどれ!とは、北野の人は言わんのです。これはなかなか懐の深いことやと思いますよ。

そして、制作チームの無茶な要求を快く聞き入れてくれ、常に、どうすれば上手くいくかを念頭に置いて、リミッターを外して最速のスピードで動いてくださった北区役所の渡部美穂さんと早瀬理恵さん、誠にありがとうございました。このお二人と仕事をするということは、日々、心にビタミン剤を注入してもらえるということでもあります。ほんと、絶対に手放してはいけない、稀有な存在です。

「そうだったのか!? 北野の歴史」は、梅田の南側にある「北野」の人向けの本で、一般には販売されません。
なので、北野地域以外の人にはなかなか手に入れにくいものなのだけど、図書館や区役所などの公的施設各所には置かれます。また、北野地域活動協議会のHPにはpdfがアップされます。そちらにお問い合わせいただくと、現物が手に入るかもしれません。

このたびは、北野の歴史を存分に執筆する機会を与えてくださり、ありがとうございました。
この仕事にかかわれたことを、誇りに思います。

夏の盛りにはじめたこの仕事も、気がつけば、北野の桜が満開の春爛漫。
ピース。
ピース。
ピース。

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