疼くひと

若いころは60や70歳なんてとんでもない高齢者だと思っていたけれども、その年齢が視野に入ってくると、40や50となんも変わらんということに気がつく。もちろん、身体のあちこちにガタが来ているのは仕方がないが、なんちゅーか、気分は、まったく変わらん。聴いている音楽もさして変わらんし、足を運ぶ場所も変わらん。もちろん、関心の先は多少の変化はあったが、それにしたって、視線の先は大枠のうちで数センチ動いた程度だと思う。
歳を重ねてパーステクティブがガラッと変わったってこともない。三つ子の魂百まで。

松井久子の『疼くひと』を読む。
主人公の燿子は、まもなく70歳になる女性だ。脚本家として活動していたが、年齢を重ねるにつれて「老い」を感じ、自身の存在価値や女性性を問い直している。
ある日、FBを通じて、燿子のファンだという15ほど年下の男性・蓮という人物からDMが届く。警戒しつつも、彼の言葉に心が動かされ、次第にやりとりがはじまる。
燿子は当初は慎重でありながらも、蓮との交流を通じて、自分の中に眠っていた「女らしさ」「欲望」「求愛心」が再び疼きはじめることを自覚する。
心の揺れ、躊躇、期待、不安、そして肉体的欲望とその葛藤が混ざり合いながら、燿子は自分自身と彼との関係を深めようとする。一方で、年齢差・身体の衰え・偏見や常識といった社会的視線とぶつかったりもする。
そこからは、年代に関係なく直面する恋愛にまつわるあれやこれやと格闘するのだが、この作品のチャレンジングな点は、なんといっても、「老いること」と「性を持ち続けること」を両立させることを試みている点だ。

一般に日本社会では高齢女性の性欲、性感、あるいは恋愛欲求はタブー視されがちだが、本作はそれをストレートに描こうとする。
題材が題材だし、女性の作家が書いた作品なのだから、どうしたって「女性解放」の文脈で語られがちな小説だが、ワシとしては、そこはどうでもいい。そこには、ほとんど関心はない。

燿子は、歳を重ねて「あきらめ」ていたと思っていた「女」である自分が、ふとした縁で目を覚ますような感覚を体験する。そして、その覚醒とともに、老いゆく身体の抵抗や不安とも向き合う。これがこの小説の核だ。
このことに男性と女性の性差があるのか、ワシには分からないが、ひとりの人間の葛藤ととらえれば、性差を超えて読むことができる。

古くは
『マディソン郡の橋』のキンケイドは51歳、フランチェスカは45歳だった。
『失楽園』の不倫カップルは、祥一郎が55歳、凛子が38歳。
しかし、最近は年齢も上がってきた。
2023年、岸惠子の『わりなき恋』では、65歳の笙子と58歳の兼太が恋に落ちた。
やはり2023年、井上荒野の『照子と瑠衣』では59歳のジョージが70歳の瑠衣に求愛する。
女性の方が年齢が上なのも、時代といえば時代だろう。

とはいえ、燿子はなお思う。乗り越えなければならないコンプレックスについて。
自分の肉体は恥ずかしいほど衰えている。
この身体を誰かの前で晒すことが、私にできるのだろうか?

この作品の果敢なところは、
老い・衰えを抱えた身体を持ちながらなお、性的な渇望や他者への憧憬を持ち続けるという「矛盾」を甘く見ず、果敢に描き切った点にあると思う。
老いらくの恋はこれまでにも描かれてきた。しかし、ここまで性と向き合ったものは、しかも女性側の視点で描かれたものは、なかったのではなかと思う。
「高齢女性 × 性」というテーマはタブー視されがちだが、それゆえにこのような作品が世に出ることそれ自体が、新しい表現の地平を切り開いていくのだと思う。今年読んだこれまでのどの作品よりも、とても果敢な作品。
ウーマンリブや現代版『モア・リポート』の文脈でこの作品を位置付けることには、ワシはほとんど興味がない。そうでない地点で、ワシは読んだ。
わが国初の女性総理総裁、といった些事よりも、よほど果敢な試み。

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