安藤榮作 – 約束の船 -@奈良県立美術館に行く。
魂が震えた。
泣きそうになったな。
ワシは、この彫刻家が背景に持つ物語を、ほとんど知らない。
東京で生まれた、福島県のいわきに拠点を構えた、東日本大震災で被災し、多くの作品と愛犬のユイを津波で失った。
放射能被害を恐れ避難の末、現在は奈良の天理市にアトリエを構える。
といった程度の、彼の歴史の中でも大文字で書かれる程度のことしか知らない。
それすらも、数ヶ月前に、なにかの拍子に彼の作品を画像で偶然見つけて、ちょっと衝撃を受けて、慌ててネットを漁って調べた程度の付け焼き刃だ。
それでも、時折りシェアされるFBの制作過程などを見るだけで、ワクワクが募っていくのだった。そして、満を持して。
この野蛮さあるいはグロテスクさと聖性を同時に宿したような作品群を、どう受け止めたらいいのだろう?
不穏だし緊張を孕んでいるのに、作品群がまとっているものは、静謐であり、聖性としか言いようのないものだ。
身体の中心部で何かが発熱するのだけど、その後、浄化された感覚に襲われる。
なんなんだ、これは。
たとえば、修験に、一定期間にわたり食事や水を絶つ行がある。数日を超えれば飢餓と渇きは肉体を蝕み、死の影が差す。これは「文明的な養生」とは真逆の、生命を削り取る野蛮な営みだ。
しかし、この行に耐え抜いた行者は「人間的な欲望の次元」を超え、神仏と通じる清浄な境地に達するとされる。命を危険に晒す行為が、逆説的に聖性を生む。
あるいは、
「風の谷のナウシカ」の王蟲や腐海。
王蟲の怒りは恐ろしく野蛮に見えるが、それは人間の不調和への自然の反応であり、秩序の回復をもたらす「正義的な暴力」として描かれる。
ピントが合っているかは分からないが、ふと、そんなことを思い出した。
ユイが健気だった。
歩く富士山がかわいかった。
もっかい行く。
もっかいと言わず、あと何回か行く。


























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