
少し前に、小栗 一紅 さんが主催する「読書会」に参加した。
昨年、岩波書店から刊行された『ケアと編集』(白石正明)がとても興味深い本で、でもなかなか咀嚼できないもどかしさもあって、一紅さんが、読書会をしよう!と、なったのだ。この本が引っ掛かっている人が、思いの外、多い。すぐに4人が集まった。そのときの話は、一紅さんがすでにエントリされて分かりやすくまとめてくれているので、そちらに譲る。
たとえば、好きなミュージシャンのライブに行って極上の時間を過ごしたあと、
心を鷲掴みされるような芸術作品に触れたあと、
そういうときは、誰とも話をしたくない。
上手く言葉にできないのにやたらと饒舌になるし、でも話せば話すほど、大切なものがこぼれ落ちてしまう気がして、何も話したくなくなる。
何も話したくないのに、なぜかやたらと饒舌になる。
それがイヤで、ライブや展覧会には1人で行くことがほとんどだ。
誰かと話すよりも、自身の裡で内省しているほうがいい。
思えば、音楽はずっと1人で聴いてきた気がする。
冬の深夜にコタツに入って背中を丸めながらRCサクセションやブルーハーツやソウルフラワーユニオンをCDにセットしてヘッドフォンで聴いていたとき、今、世界でこれを聴いているのはオレだけだと思っていたし、この広い世界にオレのことを分かってくれる人がここにいる!と思っていたし、なんでオレのことがこんなにも分かるんだ!この人はオレだ!と思っていた。
心のドアをガシガシ叩いて蹴破ってくるような表現と触れているときは、いつだって1人だったよ。
世界でオレだけが分かっている!って暗い情念を胸に秘めながら、こたつで背中を丸めながら、たった1人で世界に闘いを挑むためにナイフを研いでいた少年は、日本中のあらゆるところにいたはずだ。それがティーンエイジャーだからな。
フェスは祝祭空間なのでそこにいる人みんなで楽しめるが、レコードを聴いたりライブに行ったりするのは、基本的にはミュージシャンとワシとの1対1の切実なコミュニケーションだからな。
中上健次が好きで、
開高健が好きで、
ボブ・ディランやジャック・ケルアックやチャールズ・ブコウスキーが好きで、
村上春樹が好きで、
寺山修司が好きで、
松本雄吉が好きで、
岡本太郎の著作が好きで、
折口信夫が好きで、
中沢新一が好きで、
片岡義男のエッセイが好きで、
ロッキンオンのあの独特の文体が好きで、
湯浅学の過剰な音楽評論が好きで、
サブカルの拠り所だった「宝島」が好きで、
眩いばかりにスタイリッシュだったあの頃の「ブルータス」が好きで、
らものカネテツ広告が好きで、
「エルマガ」の「いえるいえる」が好きで、
10代から20代にかけてのワシはそんなのばっかり読み漁っていたけど、誰かと読後をシェアしたなんてことははなかったな。
つか、ワシの周りには、このような作品を読んでいる人はいなかったし、見つけられなかった。
でも大人になると、若い時分にそういう本を読んできたという人に何人も出会って、なんであの頃には出会わなかったんだろうか?と思うことしきりだ。
映画『黒猫白猫』は今でもワシのフェイバリットNo.1な映画だが、当時は、誰に話しても知ってる人なんていなかった。でも今、あの映画が大好き!って人が、ワシの周りには何人もいる。なんなんだこれは。何現象?
その意味では、読んだ本の感想をシェアしたり、ライブの帰り道で高ぶる気持ちをシェアする相手は、雑誌のライブレポートであったり、何かの書評であったりするわけで、「読書会」というのは、その単語はそれまでにも何度か耳にしてきたけど、何をする場なのか、正直まったく分からなかった。みんなで集まって、読書するのか?読書会って何よ?
そんなかんじで読書会に参加してみると、結局のところ、本の感想を述べているようでいて、自分のことを語っている。
他でもない、ワシが真っ先にそうしていた。
『ケアと編集』だと、
対話するために対話する、着地点も答えも求めない。
と書かれている箇所を引いて、ワシはそこに行くことが目的ではなく、夜を徹して走っているそれ自体のために走っている、というような、阪神・淡路大震災の夜の話をしている。
参加された他の方も、本に書かれている文を引いて、ご自身のことを語っている。
私はこう思う、という話ではなく、私はこういう人間なんだ、私はこういう体験をした、私はこういうふうにしている、ということが出てくる。
本をどう読むかは正解がないし、人それぞれだ。
そこがキモなのではなくて、読書会というのは、じつは「自己紹介」の場なのだな。
そしてその「自己紹介」は、普段サ店や立ち飲みで話される他愛のない与太話とは違って、腹の少し深いところに澱のように溜まったものを掬い取って話される類のものだ。ある種の「告白」と言っていいかもしれない。
さて、ここからがこのエントリの本題なのだけど(笑)
そういう読書会を体験したあと、ふと気になった本があって、図書館にあったので借りて読んでみた。
『夜更けより静かな場所』(岩井圭也)だ。
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344043701/
物語の舞台となるのは、古書店が閉まった深夜0時からはじまる読書会。
昼間の社会から切り離された、いわば「もうひとつの時間」だ。
そこに集うのは、学生、社会人、クリエイターなど、立場も年齢も異なる6人。彼ら彼女らはその回の課題図書を持ち寄り、語り合う。
そしてやはり、ワシが一紅さんの読書会で体験したように、閉店後の古書店の読書会に集った6人は、心に引っかかった一節を引いて、自身の人生を語りだす。
登場人物たちは皆、どこかで選択を誤った、あるいは選べなかったという感覚を抱えている。
給料がいい仕事よりも好きな仕事を選んだ契約社員の女性、ゼミの教官と不倫している女子ゼミ生、なんとなくこの人でいいかとあまり考えずに結婚した女性、スポーツ推薦で入った大学でケガをして退部した大学生、顔も知らない父親に名付けられた自分の名前を呪っている青年、理不尽な仕事が多くて本当に好きでこの仕事に就いたかどうか分からなくなっているDTPデザイナー。。。
どれも決定的ではないが、その選択は、確実にその人の人生を歪めているような感覚。
この作品では、読書会はそうした「小さな後悔」を言葉にする場所になっている。そのように読めてしまう。
興味深いのは、本が解決を与えるわけではない、ということだ。
課題図書はむしろ、「自分で選ぶしかない」という事実を静かに突きつける。
そして、夜更けというところもいい。
夜更けとは、一日の終わりでありながら、まだ完全には眠りに落ちていない時間。
社会的な役割が一時的に外れ、もっとも内省的になる瞬間でもある。
「夜更けより静かな場所」とは、
物理的な場所というよりも、
他人の評価やノイズから解放され、自分の声だけが残る精神の状態を指しているのだろう。
読書とは、まさにその場所へ降りていく行為だ。
『夜更けより静かな場所』には、
「読むことの孤独」と「語ることの希求」が、同時に存在している。
人は本を一人で読む。
しかし、そこから引き上げられる澱となっているような個人的な体験は、誰かに語りたくなる。
その矛盾を受け止める場として、読書会があるような気がする。
読書体験を通して、自分自身を語りたくなる。吐露したくなる。
少なくとも、この小説はそう読めるし、僕が参加した一紅さんの読書会も、そういう場だった。
本を読むとは、物語を消費することではなく、
自分自身の人生を読み直すことなのではないか。



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