Luis presents! DEEP KYOTO 2004 all right reserved
Google
小堀遠州
小堀遠州

遠州が出来上がるまで

小堀遠州が生まれたのは、天正7年 (1579年) 。生地は近江国の小堀村。今は長浜市のうちで、少なくとも昭和40年ころまでは、市街地とは田んぼで隔てられており、西南約30キロの琵琶湖のほとりの丘には、新築の安土城が輝いていた。
生家は在郷武士で、大名に仕える小領主ということになるだろうか。いつ、どこで、どういう家柄の家に生まれたかということは、その人の人生に大きな意味を持っている。遠州の生来の才能以外は、この三条件にかかわりがあるといってもいい。
現在、国の重要文化財のうち、土地について離れない建造物や庭園の数が多いのは、京都府、奈良県に次いで、滋賀県である。ということは、遠州は、文化的な香りの豊かな地で育ったことを暗示している。遠州が武力ではなく、文化と行政に秀でて、いわば文化武士として成長していった一因は、ここにあるのだろう。
遠州が生まれたときの小堀村は、織田信長の勢力範囲であるが、その信長が3年後に討たれ、慶長5年 (1600年) 、関ヶ原合戦以後は、家康の家臣として仕える。そのとき、遠州は22歳。彼が、御所、書院、庭園などを造るのは、行政官という職務として行ったものである。
今日、茶の湯は、喫茶と同意語に使われているが、喫茶は茶の湯の一部にすぎず、茶の湯とは、古代から桃山時代にいたる伝統芸術の総合化である。書院、茶室、庭園、美術工芸、そして礼儀作法の集大成の頂点に、茶の湯が存在している。それゆえに、茶の湯をたしなむということは、伝統文化にかかわる素養を身につけることである、天正7年はその総合化が進み大成しつつあった時期にあたる。
もうひとつ重要なことは、茶の湯は遠州一代にしては身につかないということである。生まれたときから茶の湯の環境で育ち、すでに親が茶人でないとだめなのである。
遠州は10歳のときにすでに茶の湯にかかわりあっている。郡山城で秀吉のために茶会の給仕役として出て、利休と初めて会ったのもこのときである。
12歳のときには、父にしたがって奈良の茶人・松屋久好、京都の茶人・後藤乗三とのつきあいがある。
茶の湯にとってさらに重要なことは、自らの作為、つまり独創性を加えるか否か。それによって評価が変わり、作為のない人は非作の人として評価が低い。この作為は、のちに「好み」と称され、遠州好み、利休好み、織部好みなどと表現される。
遠州18歳のときに、伏見六地蔵の自邸の茶庭で、洞水門を発案し試みている。つくばいで使った水が窪みから滴り落ちるときに、音が出るような仕掛けをつくったというのである。
このほか例を挙げないが、作為の人ということは、他方では芸術品に対して自分なりのたしかな鑑識眼も求められていたことになる。
遠州は、行政官としての武士である。
ということは、彼は、封建秩序の体制側の武士であり、封建的秩序の表現としての装飾の多い見かけも豪華な書院や大げさな庭園にも関係しなければならなかったことになり、実際に数も多い。
しかし茶湯は、秀吉にいわせれば遊びであり、やってもいいけれども熱中しすぎるなという程度のものである。封建社会の支配者にとっては、茶湯系の文化は表向きのことではないということであろう。
それゆえに茶湯系の文化には封建的秩序の表現は求められず、茶人はそれぞれの好みを表現する自由を与えられていた。
遠州は両系統の文化に携わっているから、両刀使いであったことになり、両刀使いであったからこそ、茶の湯系文化にも身も心も時間も注ぎ、自分を造型に表現出来る機会を得た。

(南禅寺 金地院)

ルイス之印
top