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天龍寺
天龍寺

鎮魂の庭

「登竜門」の語源

天龍寺庭園は、西芳寺庭園と同年の1339年、おなじく夢窓国師によって造られた庭だ。
つまり、西芳寺と天竜寺の庭園は、双子の関係にあるといえる。ともに、世界遺産にも登録されている。
京都を代表する観光スポット嵐山に、夢窓国師が晩年を過ごした臨川寺とともに位置する。周辺には保津川が流れ、渡月橋がかかる。嵐山や亀山といった山の景観とあいまって、名庭にふさわしいロケーションを残している。
渡月橋をわたり、少し歩くと、やがて天龍寺の総門が見えてくる。門をくぐり、左に放生池を臨みつつ参道を進み、台所と社務所を兼ねた巨大な切妻造りの庫裡に入る。黒光りする薄暗い廊下をさらに歩いていくと、突然眼のまえに鮮やかな大パノラマが開ける。大方丈の広縁越しに展開するこの池庭が、夢窓国師の手になる天龍寺庭園である。
曹源池を中心に、借景として背後の亀山の景観を大胆に取り入れつつも、池岸に険しい石組みを施して全体を厳しく引きしめている。975年にはすでに池が存在し、後の後嵯峨上皇の仙洞御所である亀山殿を夢窓自らが造り直したものである。
縁起によれば、池中から発見された霊石に、夢窓が「曹源一滴」と彫ったことから、曹源池と命名されたと伝えられている。正面に「龍門の滝」と呼ばれる三段の滝組みがあり、二段目の鯉魚石は、鯉が滝を登る姿を写したものという。これは、中国の山西省にある龍門の滝の故事、「鯉が滝を登ると龍になる」を再現したもので、「登竜門」という言葉の日本における発祥でもある。

後醍醐天皇鎮魂の庭

1388年、初代将軍足利尊氏が幕府を鎌倉から京都に移して以来、室町時代がはじまる。尊氏は後醍醐天皇を吉野(南朝)に追放して光明天皇を擁立 (北朝) 、以後、両天皇が対立して南北朝時代を招いた。南北朝の動乱は、じつに56年にも及び、京都は地獄さながらの惨状と化した。兵士や百姓らの骸は道ばたに放置されたまま、けっして顧みられることはなかったという。
夢窓国師は、動乱の犠牲者の供養を説いてまわったという。しかし、足利尊氏は後醍醐天皇を倒すために殺戮をやめようとはしない。『太平記』によれば、さすがの尊氏も度重なる夢窓の説得にほだされ、全国に安国寺・利生塔を建立、一切経の写経を発願した。
1339年、尊氏と対立する後醍醐天皇は吉野の仮営で崩御した。夢窓は、いち時、後醍醐天皇をパトロンとしたことがあり、その崩御は彼をひどく悲しませたという。夢窓はある夜、帝が比丘 (法体) となって、亀山の行宮に入られる夢を見た。早速、彼は後醍醐天皇鎮魂の寺を、その宿敵である尊氏、直義兄弟に建てるように直言した。直義に対する夢窓の説法をまとめた『夢中問答集』のなかには、次の一句がある。
怨敵とて厭うべき者もなし
たとえ恨みのある敵だからといって、本来嫌うべき敵など存在するはずはない、というのである。その結果、天皇に弓を引いた足利兄弟に、戦火の燻るなか、鎮魂の寺を建てさせることに成功した。
この寺が天龍寺であり、亀山上皇の別荘を寺院に改め、夢窓自ら作庭にかかわったが、彼はけっして住持の座にはすわらなかった。

天龍寺のある京の西方、嵯峨野は古来、西方浄土、鎮魂の地として知られる。付近には数多くの天皇陵だけでなく、無縁仏を供養する化野念仏寺などがある。
この地を後醍醐天皇の鎮魂の寺に決定したのは、夢窓自身であった。しかし、ただ単に鎮魂の地として天龍寺がここに決定されたわけではない。
後醍醐天皇の亡骸は、夢窓が夢で見た通り、亀山に埋葬された。そして、天龍寺最大の特徴は、池を中心として亀山を借景としている点にある。夢窓は、作庭家として、後醍醐天皇が眠る亀山を借景にすることを念頭において、この地を選んでいる。
西芳寺庭園と同様、この天龍寺庭園も、死=他界の概念が、鎮魂として深く込められている。

ルイス之印

■天龍寺
京都市右京区嵯峨天龍寺
拝観/8:30-17:30(3月21日-10月20日) 8:30-17:00(10月21日-3月20日) 大人500円
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