Luis presents! DEEP KYOTO 2004 all right reserved
Google
月
月

夜の音楽

夜の音楽、というジャンルがある。
夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、という意味だ。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書いた。マーラーの第7交響曲も、夜の音楽としてつくられている。バルトークは、ルーマニアの山村の、深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲した。
夜の音楽は、不思議なジャンルだ。
人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれる。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、かわってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになる。しかし、夜のなかで人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わからない。そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのだ。人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくる。かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する、微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ。

夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽だ。
京都には、なまのままの自然は存在しない。どんな小さな自然でも、そこでは、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものはない。庭園の設計者たちは、なまのままの自然から、最小限度の要素だけを取り出して、それで宇宙と生命のすべてを表現してみようとしたのである。
一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生してくる。静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめる。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてくる。
また、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えている。隠花植物である苔には、花はない。そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きだすのだ。そのとき、夜の庭園にいて、無数の苔に囲まれた人は、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴くのである。表面のはでやかさは否定される。そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭園のすみずみまでを充たす。
京都の町中の、市民の芸術家たちも、負けてはいない。彼らは禅宗庭園を造る。この抽象の原理を、騒がしい町のなかに持ち込んで、もっと現世的な魅力をもった、彼らの庭を造り出してきた。家並みのひしめきあう京都の町屋の内側に、市民は小さな坪庭を造ってきた。坪庭は、町屋のパテオに出現する、一種の空中庭園だ。夜、柔らかい灯りに照らされて、その小さな庭は、家屋の中央に、すっぽりと抜けた空虚をつくり出す。そして、この空虚のまわりを、人間の生活の暖かさや賑やかさが、ぐるっと取り囲むのだ。水を含み、静かな音楽に満たされている小さな庭が、人間の暮らしの中心に、無をうがつ。京都の町は、いたるところにこのような小さな無をうがたれることによって、軽さを身につけることが出来た。
この軽さは、夜の音楽に特有のものだ。夜の音楽では、人間的な感情が大きく盛り上がったりはしないし、意思や欲望の強さによって、あたりが息詰まる感覚に充たされることもない。そこでは、自然にフィットしてつくられた生命たちが奏でる、微妙な音楽があたりを包み込み、人間の世界の騒々しさを、気化してしまう。
もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたことだろう。ところが、ここでは、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空にうがたれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれているのだ。
そして、静けさと、反復の美と、なにかが月に向かって立ち上っていくような感覚に充たされた、この夜の音楽は、この世界がすべて人間のものなどではなく、ここは大いなる流れのただなかに浮かぶ浮世にすぎないという事実を、人に告げようとしている。

(銀閣寺)

ルイス之印
top