勝者のモニュメント |
もっとも成功した足利将軍 室町三代将軍足利義満は、1398年に北山殿を建立。のちに寺院へ改められたのが鹿苑寺である。三階建ての金閣を中心とした池庭であることから、通称、金閣寺と呼ばれている。 剃髪も信仰も権力のため 北山殿の造営着手の2年前、義満はわずか38歳で剃髪して出家しているが、それは信仰ための落飾ではなかった。太政大臣として権力の頂点に昇りつめ、さらに出家しても政権は握ったままだった。 日本の権力者と「北」という方位 1397年、義満は西園寺家より土地を得て、北山殿の造営に着手、翌年には完成を見ている。花の御所は息子の義持に与え、以後、他界するまで北山殿を住居とした。ここで疑問となるのは、すでに贅を尽くした花の御所があったのにもかかわらず、なぜあえて北山の地に移る必要があったのかという点である。日本の権力者にとって、北という方位は特別な意味を持つ。 たとえば、藤原京や平城京、平安京など、古代の首都は東西南北の方位に一致させた格子状の四角い配置を持っていた。なぜなら、皇居である大内裏を必ずその配置の真北に配す必要があったからだ。 古代中国において、北極星は「天帝」と呼ばれ、宇宙全体の主宰者であると考えられていた。そのため、皇帝の住居も必ず真北に配された。日本にもそれが伝わり、真北を聖地と位置づける風習が定着した。1616年、江戸の真北の日光東照宮に祀られた徳川家康が、その代表である。 そして、足利将軍のなかでも頂点を極めた義満も、北山はその住居としてもっともふさわしい地であると考えたのである。 「黄金をもって散りばめ美を尽くし」 創建時の北山殿、現在の金閣寺は、「西方極楽もかなふべからず」、あの平等院が再現しようとした極楽浄土もかなわないほどの絢爛豪華さであったという。また、「玉を敷き金をのべて、造り整へさせ給ふ」とも述べている。 金閣炎上 金閣は義満のモニュメントとして、約5世紀の時空を超えて遺された。国宝に指定され、京都最大の観光名所として愛されてきた。しかし、1950年、放火により炎上した。炎上とともに金閣寺の22歳の学生僧が失踪、山狩りの結果、自殺未遂で発見される。放火を認め、彼の母は罪の重さに耐えかね、列車から川に身を投じた。 世阿弥「夢幻能」のメッセージ 義満がつくりあげた北山文化は、金閣寺だけではない。能に関しても大きな足跡を残した。能の完成者として、つとに有名なのが世阿弥であり、この世阿弥の後継者が今に続く観世流である。賤民階級にあった世阿弥を重用し、能楽を大成させた人物こそが、義満であった。しかし、義満の死後、義持は父への嫉妬から北山殿を壊すと同時に、父の重用した世阿弥にも制裁を加えた。演能の機会が得られなくなっただけではなく、ついには島流しにされてしまったのだった。こうしたなかで、世阿弥みは、もっぱら作品づくりに没頭した。世阿弥のこの逆境期に生み出された作品の多くが「夢幻能」と呼ばれるものであり、死者や物怪が無念の気持ちを語り、それを時宗の旅の僧侶が聞いてやるという鎮魂のストーリーとなっている。 能を舞う能舞台に、橋掛りと呼ばれる廊下が造られるようになったのも、世阿弥の逆境期であるといわれている。この橋を渡って死者や物怪は舞台に上がるのであり、橋は、三途の川に架かるあの世とこの世の結界となっている。 義満が北山殿を造営した時期も、都は内戦や飢饉、疫病が絶えなかった。街は地獄絵と化していたが、幕府は死体を放置したままだった。義満は法体となったあとも、こうした事実とはまったく無関係に生きた。ついには北山殿金閣の造営に着手、黄金をもって散りばめ美を尽くしたのだった。 世阿弥は、この義満に死者の無念をテーマにした草創期の夢幻能を繰り返し見せ続けた。そして逆境に入ると、もっぱら夢幻能ばかりをつくった。これは、後継ぎ義持を意識してのことだ。底辺社会のために心を尽くした時宗の僧とかかわりあいの深い阿弥衆として、都の地獄を顧みない将軍へのメッセージとして夢幻能は生み出された。金閣寺庭園にも、「あの世」は見え隠れしている。 |
■金閣(鹿苑寺) 京都市北区金閣寺町1 拝観/9:00-17:00 大人400円 |