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金閣
金閣

勝者のモニュメント

もっとも成功した足利将軍

室町三代将軍足利義満は、1398年に北山殿を建立。のちに寺院へ改められたのが鹿苑寺である。三階建ての金閣を中心とした池庭であることから、通称、金閣寺と呼ばれている。
1338年、初代将軍足利尊氏が京都に幕府を開いてから、1573年、十五代将軍足利義昭が織田信長に追放されるまでの約200年間が、室町時代である。
尊氏は後醍醐天皇を追放して光明天皇を立てたため、両天皇が対立し、南北朝時代を招いたために、戦火が絶えなかった。しかし、1392年、三代将軍義満が南北朝の合体に成功、再び京に平和が訪れた。義満の優れた手腕はそれだけではなく、明との勘合貿易を行ない、巨万の富を手にしている。その財力を湯水のように注いで、京都室町の地に「花の御所」と呼ばれる豪華絢爛な居を構えて、権力を欲しいままにした。室町時代という呼び名は、まさに義満の室町での輝かしい成功から名づけられている。
さらに、義満の成功は政治にかぎったことではない。京都・北山の地へ北山殿を営み、多数の芸術家を重用し、北山文化を生み出した。この北山殿こそが、現在の金閣寺である。

剃髪も信仰も権力のため

北山殿の造営着手の2年前、義満はわずか38歳で剃髪して出家しているが、それは信仰ための落飾ではなかった。太政大臣として権力の頂点に昇りつめ、さらに出家しても政権は握ったままだった。
明との貿易においては、「日本国王」と名乗り、晩年には皇位までほしがり、花の御所のみならず、のちに金閣寺となる北山殿すらも、「御所」と天皇の住居の呼び名で呼ばせている。そしてさらに、法王となってすべての位の上に君臨した。武家にかぎらず、あまたの公家も、義満に倣って出家するものが続出するほどであった。
息子の義持に将軍位は譲ったものの、いまだ幼少であるがために、実権はあくまで義満が握り、法体という超俗の立場で政事を入れる隠れ蓑であった感が強い。

日本の権力者と「北」という方位

平安図
1397年、義満は西園寺家より土地を得て、北山殿の造営に着手、翌年には完成を見ている。花の御所は息子の義持に与え、以後、他界するまで北山殿を住居とした。ここで疑問となるのは、すでに贅を尽くした花の御所があったのにもかかわらず、なぜあえて北山の地に移る必要があったのかという点である。
日本の権力者にとって、北という方位は特別な意味を持つ。
たとえば、藤原京や平城京、平安京など、古代の首都は東西南北の方位に一致させた格子状の四角い配置を持っていた。なぜなら、皇居である大内裏を必ずその配置の真北に配す必要があったからだ。
古代中国において、北極星は「天帝」と呼ばれ、宇宙全体の主宰者であると考えられていた。そのため、皇帝の住居も必ず真北に配された。日本にもそれが伝わり、真北を聖地と位置づける風習が定着した。1616年、江戸の真北の日光東照宮に祀られた徳川家康が、その代表である。
そして、足利将軍のなかでも頂点を極めた義満も、北山はその住居としてもっともふさわしい地であると考えたのである。

「黄金をもって散りばめ美を尽くし」

創建時の北山殿、現在の金閣寺は、「西方極楽もかなふべからず」、あの平等院が再現しようとした極楽浄土もかなわないほどの絢爛豪華さであったという。また、「玉を敷き金をのべて、造り整へさせ給ふ」とも述べている。
『足利治乱記』によれば、天皇の行幸の際は、金銀の造化が庭にまき散らされたといわれる。また、「唐や大和の珍しき木材を集め、色々の巧みを尽くして営み、黄金をもって散りばめ美を尽くし」と、そのありさまを表現している。
護摩堂、殲法堂、紫宸殿、公卿間、舎利殿、天鏡閣、泉殿、看雪亭などの建物が建ち並び、「高くそびえ建つ楼や閣、絵や彫刻で飾った建築が東西南北に碁石を並べ星を散らしたように配され、天上より降り、池中より湧き出たのか、まるで極楽浄土のようで、今に天下の語りぐさになっている」と、絶賛している。
このなかの舎利殿こそが、現在、寺の別名ともなっている金閣であり、足利将軍としてもっとも権勢を誇った義満の、勝者としてのモニュメントといっていいだろう。三階建ての楼閣建築で、一階は法水院、二階は潮音堂、三階か究意頂と呼ばれている。二階、三階にのみ金箔が押されており、各階ごとに建築様式が異なる。
まず一階は貴族の住宅形式である寝殿造り、二階は武家の住宅形式である書院造り、そして三階は禅宗寺院の様式。将軍という武士の身でありながら皇位を欲し、法体になった義満自身を表現して余りある。

金閣炎上

金閣は義満のモニュメントとして、約5世紀の時空を超えて遺された。国宝に指定され、京都最大の観光名所として愛されてきた。しかし、1950年、放火により炎上した。炎上とともに金閣寺の22歳の学生僧が失踪、山狩りの結果、自殺未遂で発見される。放火を認め、彼の母は罪の重さに耐えかね、列車から川に身を投じた。
なぜ放火したかについて警察が問いつめたところ、美への嫉妬であったという。このことは、三島由紀夫や水上勉、市川崑らが相次いで自作に取り上げ、やはり、犯人がその美しさに魅せられて焼いたという解釈を示した。
なお、現在の金閣は、1955年に再建されたもので、明治時代の実測図を礎に正確に復元されたものだ。材木そのものこそ異なるが、姿かたちは寸分の狂いもない。しかも、江戸時代に改造された箇所を創建時の姿に戻すなど、より原型に近く、再建に対するマイナスイメージはほとんどない。
見どころは、もともと金閣ひとつにかぎられたわけではなく、庭園内の地形や植栽、石組みなどに義満時代の面影を彷彿とさせるものが多々あり、こまめに足を運んで眺め歩いても見飽きることがない。金閣炎上は、この庭に大打撃を与えたというよりも、むしろ、数奇なこの庭に、新たな伝説を加えたと考えることすら出来る。

世阿弥「夢幻能」のメッセージ

夢幻能の演目「班女」
義満がつくりあげた北山文化は、金閣寺だけではない。能に関しても大きな足跡を残した。能の完成者として、つとに有名なのが世阿弥であり、この世阿弥の後継者が今に続く観世流である。賤民階級にあった世阿弥を重用し、能楽を大成させた人物こそが、義満であった。
しかし、義満の死後、義持は父への嫉妬から北山殿を壊すと同時に、父の重用した世阿弥にも制裁を加えた。演能の機会が得られなくなっただけではなく、ついには島流しにされてしまったのだった。こうしたなかで、世阿弥みは、もっぱら作品づくりに没頭した。世阿弥のこの逆境期に生み出された作品の多くが「夢幻能」と呼ばれるものであり、死者や物怪が無念の気持ちを語り、それを時宗の旅の僧侶が聞いてやるという鎮魂のストーリーとなっている。
能を舞う能舞台に、橋掛りと呼ばれる廊下が造られるようになったのも、世阿弥の逆境期であるといわれている。この橋を渡って死者や物怪は舞台に上がるのであり、橋は、三途の川に架かるあの世とこの世の結界となっている。
義満が北山殿を造営した時期も、都は内戦や飢饉、疫病が絶えなかった。街は地獄絵と化していたが、幕府は死体を放置したままだった。義満は法体となったあとも、こうした事実とはまったく無関係に生きた。ついには北山殿金閣の造営に着手、黄金をもって散りばめ美を尽くしたのだった。
世阿弥は、この義満に死者の無念をテーマにした草創期の夢幻能を繰り返し見せ続けた。そして逆境に入ると、もっぱら夢幻能ばかりをつくった。これは、後継ぎ義持を意識してのことだ。底辺社会のために心を尽くした時宗の僧とかかわりあいの深い阿弥衆として、都の地獄を顧みない将軍へのメッセージとして夢幻能は生み出された。金閣寺庭園にも、「あの世」は見え隠れしている。

ルイス之印

■金閣(鹿苑寺)
京都市北区金閣寺町1
拝観/9:00-17:00 大人400円
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