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詩仙堂
詩仙堂

監視の庭

石川丈山隠棲の地

比叡山の山麓、修学院離宮にほど近い一乗寺の地に、石川丈山が隠棲した詩仙堂がある。丈山は1641年、59歳のときに自らこの庭園を作庭、90歳で亡くなるまで清貧の隠遁生活を送った。
表門をくぐり、緩やかな石段を昇りつつ鬱蒼と繁る樅と竹の木漏れ日のなかを進んでいくと、完全に俗界から仙界へ入ったような印象を受ける。建物内部には、詩仙堂の由来ともなった中国36人の詩人の詩と絵師狩野探幽に描かせた画像を掲げられている。
庭園は傾斜地に上下二段に造られており、谷川の流水が各階の庭園をひとつの空間にまとめあげている。また流水を利用して鹿おどしが設けられ、サツキの大刈り込みや紅葉、山茶花の植栽と呼応する清々しい庭園の音の要素となっている。詩仙堂の建物「蜂要」には望楼が設けられており、庭園の全体像はもとより、比叡山や京の町を一望することが出来る。

天皇を監視する

石川丈山は、本名を嘉右衛門重之といい、れっきとした徳川家譜代の武士であった。徳川発祥の地、三河国壁海郡の出身であり、松平正綱や本多忠勝といった徳川の重臣とも親戚関係にあり、幕府の信頼厚い人物であったことは明らかだ。
ところが、伝説では、33歳のとき、大坂夏の人に参加した際、魁の功を焦って軍規に触れ、徳川家を離れて隠居したものという。これはあまりにも唐突な身の振りかたといっていい。しかも隠居後、離れたはずの徳川家の御用学者・林羅山と深い親交があったといい、矛盾が多いのもたしかだ。また、その31年に及ぶ隠棲の生活費や詩仙堂の造営費がいったいどこから出たのか、未だに不明ある。
そこで、すでに江戸時代の頃から丈山は徳川家のスパイとして、後水尾院や公家の動きを監視していたという説が、数多く囁かれてきた。たとえば、詩仙堂を修学院離宮の近くに造ったのも、御水尾院監視のためだといい、また、望楼も、修学院離宮や都の監視のためだという。現に、蜂要という中心施設には、一階の上と二階に南向きの窓があり、また他の二方も開け放つことが出来るようになっており、南、西、北を一望することが出来る。さらに、こうした楼閣建築としては他に例がない忍び返しが取りつけられているのも、忍者屋敷を彷彿とさせる。丈山は望楼から狼煙を上げて、鷹峯の野間三竹という儒者と絶えず連絡しあって、無事を知らせたという説まである。
御水尾院が修学院離宮を造営する際、院の外出を幕府が許さないので、御水尾院自身が女中の格好に扮して、興に乗って現場に通って指図していたという。驚いた京都所司代板倉重宗が、院に問いただし否定された。どこかで修学院離宮の動きを監視する者がなければ、このような嫌疑をかけられることはなかったはずである。
じつは、後水尾院自身が、御所へ丈山を招こうとしたこともある。しかし、次の歌をもって丈山は断った。

渡らじな蝉の小川は浅くとも
老いの波たつ影もはずかし

つまり、加茂川 (蝉の小川) を渡って洛中に一度も足を踏み入れたことはない。言い換えれば禁裏に近づくことが出来ない徳川方の監視役であることを告白しているともとれるのだが、確証はない。
どちらにしろ、詩仙堂の庭園は石川丈山という謎の人物と重なりあって、足繁く通っても興味の尽きない庭である。

ルイス之印

■詩仙堂
京都市左京区一乗寺門口町27
拝観/10:00-17:00 大人500円
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