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つつじ
つつじ

緑の連邦に綾なすつつじ

あれは、レンゲツツジだったのだろうか、広い山の背を覆って、赤味がかったオレンジ色の花が咲きみちていた。五辨に切れ目のある花がそのあたり一面にひろがって、山が燃えるという表現がぴったりだった。
修学院離宮のそばの音羽川をさかのぼって、その源流を目指していたときのことである。クズの群落を横に見て、杉木立を通り、ササ原のなかを歩き続けて、もうそろそろ源流に辿り着くころだろうか、そう思っていたときのことである。
尾根をまわると不意に眼のまえにひらけた風景に驚いた。それは紅く、透きとおるようなつつじの花だったけれども、自分のいのちの源に触れたという思いがしたことを覚えている。
比叡山から大文字山にかけての稜線はなだらかにカーブして、そこに辿り着けばすぐにも琵琶湖が見えるように思うが、実際は山の背が意外に広々としていて、ササ原が続き、ところどころにツツジの群落がひろがっていた。
東山の峰峰は、たしかになだらかな曲線を描いているけれども、その西側、つまり京都側の斜面はかなりの急傾斜を示している。斜面には、松、杉、樫、楠、椿をはじめ数多くの樹種がまじっていて、そこに白河をはじめ、いくつもの流れが谷を刻んでいる。
大都市の外まわりの、海抜200〜300メートルに満たない低い山々の連なりではあるが、むかしはイノシシもいたというくらいで、ところどころに深山の趣を残している。
市街地から眺めると古都を囲む緑にスクリーン、丈の低い屏風なのであるが、初夏のころになると、そこここにツツジが咲いて、紅いかたまりが点々と模様を連ね、屏風の彩りを発見することになる。
ここのところを西陣織の布地に置き換えてみると、ツツジの花々は、あるときは地となって咲きみち、あるときは柄となって緑の地を引き立てている。
さて今、銀閣寺の近くを歩いている。京都疎水と白河がある。ふたつの流れのうち、白河のほうは歴史的にも由緒のある川であり、今後もそうでなければならないはずなのだが、不幸にして、当局の河川管理の失敗によって川の三方をコンクリートで固められてしまい、川というべきか、溝というべきか、なんとも味わいのない流れになってしまっている。
一方の京都疎水のうち、銀閣寺から若王子のあいだは哲学の道と呼ばれて多くの観光客を集めるようになった。四季を問わず往来する人々は多いが、なんといっても桜の時季が素晴らしい。石畳の舗道が整えられ、桜、ドウダンツツジ、サツキ、レンゲツツジが植え込まれている。
そこに、近郊から拾い集めてきたとおぼしき花崗岩の地蔵さんも並べられている。また、この道のほぼ中間点に丸い自然石に刻まれた西田幾多郎の歌碑が建っている。丈が低いから、立っているというよりも置かれているといったほうがいいかも知れない。細く、強い筆跡がそのまま刻み込まれている。
人は人吾は吾なりとにかく吾行く道を吾は行くなり
着物を着て、思索に苦しみながら、この道を行き戻りした哲学者の面影を偲ばせるのであるが、西田幾多郎がここを散歩したかどうかは、確証がない。しかし、禅、あるいは東洋思想の核心に参入しようとした西田さんではなく、むしろその立場に反対して自らギリシャ哲学の立場を貫いた田中美知太郎が好んでこの道を散歩したことは、まちがいのないところだ。
疎水の水は、桜は、ツツジは、人間の思想的立場などに関係なく、昨日も今日も、そして明日も、老若男女の歩みを引きつけているように見える。流れる水、散る桜、そして深紅のツツジ。
石碑、歌碑、句碑ということになると、東山のほとりにどのくらいあるだろうか。疎水のすぐ近く、銀閣寺の南に並んで法然院があり、その墓地には空、寂と刻んだ谷崎潤一郎夫妻の墓石があることでよく知られている。また境内に河上肇の墓もあり、丈高い石碑が建っている。万葉仮名を現代の仮名づかいに書き直すと、
辿り着き振り返り見れば山川を 越えては越えて来るものかな
と読める。マルクス経済学者というより、明治生まれの思想家のひと筋の生涯を思い起こして、感慨深いものである。
京都では、都市が、寺社が、町屋が、そしてさらには一軒一軒の民家までが、入れ子構造のようにして自然を抱きかかえている。
あるいは反対に、自然が大小の人工構築物を抱きかかえているのであろうか。

(詩仙堂)

ルイス之印
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