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紅葉
紅葉

紅葉狩り

ある日、祖母が言う。
「紅葉狩りに行きまほか」
母が答える。
「今年はどこがよろしやろ」
「誰ぞにお尋ねしまほ」
あ、もう、秋や。
子供のころ、ある日の祖母や母の会話を耳にして、秋の到来を知った。
おとなたちの言葉にともない、薄布を一枚剥がすように一日のうちにやって来た。
大人たちは、洛中洛外のお寺の庭を、あたかもこの町の地続きの庭のように、毎年、あそこがええ、いや、今年はこっちがよろし、と、紅葉の品定めをして出かける。
染めと織りの町の気のあった女ばかりの少人数に連れられて、行く。大勢が集い、敷物や重詰めやお酒を持ち着飾っていく春の花見とはちがい、なにも持たない静かな一行であった。
それはたぶん、紅葉をお寺の庭で見るためであろう。
「お座りやす」
お寺に入り、立ったままでいると、叱られた。
力に充ちてきっぱりと照る秋の陽は、紅葉や黄葉にあたると崩れて折れて柔らかく斜めになり白砂に落ちていく。
葉っぱの一枚一枚が光となって透きとおる。紅葉が照る、という言葉を庭を見て覚えた。
池を巡る回遊式の庭でも歩かずにずっと座って見ていた。池の向こうの紅葉と常緑樹とがまじる濃い風景のうえを、光と翳りが音のない波のように揺らめくのを飽かず眺めていた。
つづれの帯みたい、と帯を織る人はいい、黒留袖の裾模様、と繍いをする人はいう。祖母は、ほんまにほんまに、とあいづちをうち、母は庭へ降りると散り紅葉を拾い、懐紙に挟んだ。その夜のお膳にひとひらふたひらみひら、紅葉のてんぷらがのる。口じゅうにほろほろとこぼれる葉っぱの感触に、紅葉狩りという言葉を実感した。
大人になり、紅葉狩りには、紅葉に遠慮して、着物や帯は紅葉の模様をはずすようにと祖母に教えられ、いつしか黒っぽい着物が好みになっていった。
そんなころ、母に、あんさんはうちのほんまの子やおへんのや、と告げられる。旧満州で生みのの母は病死、父は行方不明となり、叔父に連れてこられこの京都へ引き揚げてきたのを引き取って育ててくれたのであった。祖母は、これからは人さんに泣き顔見せたらあかんのえといった。
そして祖母と母は秋の地図を辿るようにして、毎年、紅葉の庭へ誘ってくれた。
座ってお庭を見ると、さまざまな哀しみが紅葉の色に晒されて透明になっていく。そして、気持ちがしゃんと立ち上がってくるのだった。
「ほな、さいなら」
と消えるように祖母は逝き、紅葉仲間の職人さんも少なくなり、そして母も老いた。立ち上がるために静かに座る紅葉の庭、それを教えてくれた人々である。
紅葉狩り、どこへ行きまほ。ある日、独り言をいい、今年の秋がはじまる。

(曼殊院門跡)

平野良子
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