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銀閣(慈照寺)
銀閣(慈照寺)

敗者のモニュメント

斜陽の将軍・足利義政の和歌

金閣寺を造営した足利義満の孫にあたるのが八代将軍足利義政である。慈照寺庭園、通称銀閣寺は、1490年、この義政によって建立された。
義政が銀閣寺庭園で詠んだ次の和歌がある。

くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ
心くまなき月をながめて

くやしくぞ、ではじまる上の句は、和歌史上、ほとんど例がない。現実に打ち勝つことが出来ず、月に逃避した彼の悔しさが、まさにこの句に言い尽くされているといっていい。義満が最盛期の将軍だとしたら、義政は斜陽の将軍といえる。1449年、義政はわずか14歳で将軍職を継ぐが、その出発は初めから苦渋に満ちたものだった。まだ幼少の将軍に代わって乳母や家臣が義政を補佐するという名目で政治を独占したのである。彼は将軍になると同時に日野富子と結婚したが、これが義政の立場をさらに悪化させることになる。
そうしたなかで、義政自身はさまざまな慣習を順調だった義満時代に戻そうと努力したが、それらはすべて裏目に出てしまう。もっともまずかったのが、新手の徳政令を出したことと、主要街道の七ヶ所に関所を設けて厳しく関銭を徴収しようとしたことだろう。
各地で土一揆や一向一揆、徳政一揆などが次々に起こり、商人の倉や高利貸しの金倉が襲われ、街は無法地帯と化した。いじけた義政は、完成したばかりの巨大な将軍邸を、今度は義満の花の御所跡へすべて移し直したいと言い出し、周囲を途方に暮れさせている。
義政は、この頃、次のような和歌を詠んでいる。

さまざまの事のふれつつ欺くぞや
道さだかにも治めえぬ身を

政道を治めえぬのを嘆いている。彼の絶望がひしひしと伝わってくるような歌だ。また、この頃まで「義成」と名乗っていたが、政道の政を用いて、「義政」と改名した。それほどまでに追いつめられていたことがわかる。そして30歳になった義政は、ついに将軍職を3歳年少の弟、義視に譲ろうとする。政道からの逃避であった。
ところが、妻の富子が義政の後継ぎ・義尚を出産。当然、富子は息子を将軍にしたい。義視と義尚の対立が、京都を焦土と化した11年に及ぶ骨肉の争いへと発展していく。応仁の乱である。そしてさらに、応仁の乱が引き金となって、戦国時代へと突入することになる。将軍として、家長の責任と自覚、そして能力に欠けた義政が、日本史上最悪の百数十年に及ぶ戦乱を引き起こしたといえる。

餓死者を横目に花見に興じる

1461年、義政の夢枕に亡き父が立ち、「飢餓に苦しむ乞食たちに施しをせよ」と言ったという。1459年頃から、京都は大飢饉の真っ只中にあった。記録によれば、1460年は、一、二ヶ月で約8万2000人の餓死者があったという。京都中に死体が散乱し、飢えた者がそれらを貪り、また鴨川の四条大橋に流れついた死体が、流れを塞き止めて洪水を起こしたことなどが伝えられている。
僧の願阿弥が8万4000本の卒塔婆を造り、放置された遺体のうえへひとつずつ置いていったところ、2000本を残すのみであるとも記されている。民衆の救済は、いち僧侶の努力にかかっており、義政はまったく顧みることはなかった。
この天変地異のなか、幕府の役人はどうしていたのか。
『碧山日録』によると、餓死した子供を抱いた母親を役人は税を求めて少しも許さないと記されている。また、将軍の花見に同行する役人についても、酔って剣を抜き、飲んだ酒を嘔吐する光景を生々しく描写している。願阿弥の救済と役人の醜態。ここに聖と俗の明確な対比が露になる。
それでは、義政は餓死者が群れるのを横目にいったいなにをしていたのか。京都がもっとも地獄の様相を呈していたといわれる1459年や応仁の乱前後ですら、花見に興じていた。西芳寺を訪れた際には、道中戦火で焼けただれた民家や無数の骸を目撃し、さすがに少し反省するかのような言葉を呟いたという。
しかし、東山の花見のとき、義政は次のような句を詠んだ。

さきみちて花より外の色もなし

都の惨状に対し、花のほかに見るものがない、と不快を表したのである。これをたかが政道に悩む将軍の孤独として捨て置くことなど出来るわけはなく、将軍に直言出来るただ一人の人物、後花園天皇が次の意味の漢詩を義政に送りつけた。

生き残った民は争って首陽山のワラビを採り、いたるところ、家々は垣根を閉ざし竹扉も閉ざしている。詩を興じようとして辛酸を味わうこの春二月、都に満ちる花の紅も緑も誰のためにあるのか。

と。
生き残りの人々が草を食って飢えをしのぎ、家を閉ざして喪に服しているのに、春二月に詩を興じてどうして楽しいのか。都に満ちる花や木は、いったい誰のためにあるのか、少しは考えてみよ、と天皇は諭したのである。しかし、この天皇の痛烈な批判すら、義政には届くことはなかった。ついには、あの銀閣の壮絶な造営へと暴走していくのである。

逃避としての作庭

大飢饉と応仁の乱によって、京都は史上最悪の地獄絵を呈した。将軍は無力化し、幕府衰退の一途をたどった。一揆が多発、下克上が起こり、そのまま100年以上に及ぶ戦国時代へ突入してしまう。
妻・富子と息子・義尚、そして弟の義視。これら近親者によって引き起こされた骨肉の争いのなかの1473年、義政は義視との約束を反古にして、将軍職を義尚に譲った。そして翌年、妻子の住む室町殿を逃げ出し、新築した小川殿へひとり移ってしまったのである。ところが、1476年、逃避という名目で妻と子があとを追って小川殿へやって来る。また、土御門天皇までが、小川殿へ同様に身を寄せる始末となる。1481年、義政は密かに小川殿を脱出、今度は聖護院殿への逃亡を図った。すぐさま、帰宅するように天皇の命令が下ったにもかかわらず、義政は戻らない。
将軍職も、妻子も、兵火も、民衆の苦しみも、一切を放り出して、絶命にいたるまでの8年間、義政が残るすべての情熱を傾けたのが、あの銀閣寺、東山殿の造営であった。

墓地を無断で敷地にする

義政は、銀閣寺造営の17年前の1465年、すでに自らの庭園のための候補地を物色している。ちょうど、あの、「花より外の色もなし」と彼が詠んだ年であった。
しかし、応仁の乱が11年にも及んだため、さすがに作庭は延期せざるをえなかった。戦乱が1480年に収まると、再び各地に土地を求めて訪ね歩く日々が続いている。そして、翌1481年、義政は東山のとある土地と運命的な出会いを果たすことになった。この土地こそが、銀閣寺庭園が営まれた場所である。
ただし、この地を庭園の敷地にするためには、余りにも困難な問題があった。この土地は、延暦寺の末寺、浄土寺の墓地だったのである。
銀閣寺の傍らを流れる白川流域には、奈良時代、北白川寺があった。また、東に霊艦寺、法然院、南に真如堂、黒谷・金戒光明寺などの古寺がある。さらに平安時代には数多くの天皇陵、そして日本初の火葬場が設けられていた。すなわち、このあたり一帯は、古来、葬送の場所として位置づけられてきたことがわかる。そもそも、浄土寺の浄土という言葉がそれを物語っている。
1964年、銀閣寺東求堂解体修理の際、約20センチ下の焼土から、人骨とともに庭石や排水路が出土し、この地が浄土寺墓地跡であることが裏付けられた。銀閣寺前の浄土院の本尊は、この浄土寺の本尊を祀ったものであるし、またその北の八神社はもともとは浄土寺の鎮守である十禅寺社であった。
義政は、この禁断の墓地に魅了され、恐るべきことに無断でこの地へ作庭を施したのである。浄土寺の本山である延暦寺は、この義政の狂気ともとれる行為に対し、「浄土寺は天下無双であるのに、墓をこぼち山荘を造るとは、仏罰に値する」と、義政の後継ぎである将軍義尚に強く抗議したという。
義政は、なぜ、批判を受けるのを承知で、あえて墓地を作庭の敷地に選んだのだろうか。
義政は、西芳寺庭園をもっとも愛していた。銀閣寺は西芳寺を模して造られたのだが、西芳寺庭園こそは、無縁仏の亡骸を供養した穢土寺と、あの世である西方浄土を意図する西方寺の地に作庭されている。
義政も、そうした西芳寺の由来を知ったうえで、それを模して銀閣寺を造ったはずである。あえて墓地を敷地に選んだのも、おそらく西芳寺とおなじ立地条件を望んだからにほかならない。義政は、まさに確信犯だった。

金がなければ身体で払え

1482年、義政はついに銀閣寺・東山殿の造営に着手する。その命尽きるまで、8年の歳月をかけて全精力を、いち庭園のために注ぎ込んだ。当然、造営には、多額の費用と人夫を必要としたはずである。いったいその財源や労働力は、どこに求められたのか。
第一に、費用。幕府は、大名と寺社と農民にそれぞれ、「御山荘御要脚」「要脚段銭」「御普請料」と呼ばれる銀閣寺造営のための臨時税を課している。最初は臨時税の予定だったが、造営の長期化から、毎年課せられるようになった。
第二に、労働力。戦乱と大飢饉のなか、税が集まらなくなると、幕府は税だけではなく、直接の労働力となる人夫の徴用を寺社に要求した。金がなければ身体で払え、というのである。1483年の東寺 (教王護国寺) の例を挙げると、銀閣寺造営のために760名もの人夫を集めなければならなかった。そのほとんどが東寺の荘園の飢えた農民であり、銀閣寺庭園の樹木や石、木材の運搬を担当し、下敷きとなって没する者も少なくなかった。
戦火と大飢饉のなかで、税の取り立てと人夫の徴用によって、1485年、ついに民衆は立ち上がる。これが山城国一揆である。しかし、義政はそれを知ってか知らずか、何事もなかったかのように造営中の銀閣寺に移り住み、なにかにとり憑かれたように作庭へとのめり込んでいったのである。

壮絶な掠奪による造営

義政は、終始、花を愛で、草木や石を愛していた。しかも、単なる庭好きというよりも、作庭家といっていいほどの知識と経験を身につけていたことも明らかになっている。彼は自らが発端をつくった応仁の乱によって大打撃を受けた数多くの庭園を丹念に見てまわり、修復についての具体的なアドバイスを与えたりしている。そして、自らの庭造りに際し、その知識と経験を惜しげもなく注ぎ込んだ。自らの庭園造営にあたり、義政がその価値をじゅうぶんに理解していた京都周辺のもっとも優れた石や植木を掠奪し、銀閣寺へ運ばせたのだった。その壮絶な掠奪行為は、記録に詳細を極めている。壮絶な事実の羅列から、以下、いくつか拾ってみると、
1484年には、義政が愛した夢窓国師の作庭になる京都の等持院から大量の松を没収、銀閣寺に移植した。その運搬にあたり、等持院の建物の廊下と壁を破壊している。
1486年には、奈良の長谷寺より無数のヒノキを掠奪し、建築材に用いている。
さらに、京都の東寺からも蓮を大量に徴発、蓮池の名所がただの池になってしまった。その他、義政の祖父である義満の造った銀閣寺までが犠牲となり、義政一流の観賞眼で選ばれた庭石10個が銀閣寺へ運ばれた。
翌1487年には、よほど義政の好みにあったのか、再び長谷寺からヒノキを没収している。、また、天皇の隠居場所である仙洞御所や、室町幕府の発祥となった室町殿や、息子義満の暮らす小川殿から義政の眼にかなった石だけが抜き取られた。室町殿からは二度にわたり石を掠奪し、二度目の石はかなり大きく、 300人の徴用された人夫によって運ばれ、数名が石の下敷きになって死んだ。
1488年には、義政の好みによって再び仙洞御所から徴発、今度は松だけを2回に分けて運び、それぞれ1000人、3000人の民衆から徴用された人夫によって行なわれ、やはり数名の人夫がその重さの犠牲者となった。
義政はもっとも愛した西芳寺庭園からは、掠奪をまったく行なっていない。しかし、あれほど憧れた父義満の遺した金閣寺からは、繰り返し掠奪を行なった。しかも、義政は銀閣の造営の1488年、なんと金閣二階に安置された仏像を銀閣に運び、自らの寺の本尊とした。若き将軍時代の義政の、義満の栄華への憧れは、政治に挫折した晩年の彼にとって、嫉妬となって掠奪に走らせた。
翌1489年には、京都の大乗院から梅2本と松、また再び室町殿から松3本、奈良の西南院から松1本、一乗院からも松1本を、すべて義政の意に叶った樹齢100年以上の傑出したものだけを選んで掠奪した。
こうして、奈良・京都の銘木、名石を奪い尽くし、移し集めた結果、「じつに西方浄土と言うべし」といった光り輝く風景が生み出された。
銀閣寺には、建設中の観音殿(銀閣)のほか、超然亭、東求堂、西指庵、弄清亭、夜泊船、漱蘇亭、釣秋亭、会所、御末、台所、総門などが所狭しと建ち並び、現在の規模とはまったく比較にならない広大さを誇っていた。
臨時税、人夫徴用、そして掠奪。情け容赦ない修羅の態度で義政が造営した銀閣寺は、死臭漂う焼け野原と化した京都のなかで、唯一絢爛たる別世界を構築することに成功した。

因果応報の果て

現在、銀閣寺に残る義政時代の建物は、わずかに銀閣と東求堂のふたつに過ぎない。 それは、義政が東山殿の造営のために行なった所業の、まさに因果応報としかいいようがない。義政が掠奪したものを、彼の仕事、持ち主が取り返しにきたのだった。
1491年には、将軍足利義稙の命を取りつけた大智院が、義政に掠奪された材木を取り返そうと、銀閣寺の材木置き場を点検した。すると、わずかに垂木15本を残すのみであったために、銀閣寺の建物のおそらく常御殿が代わりに破壊されて部材が持ち去られた。
また、1515年には、三条西実隆が銀閣寺の会所の障壁画を内裏に運んで鑑賞している。
1552年には蜷川親俊が銀閣寺のめぼしい庭石をすべて引き移した。その他、さまざまなかたちで、銀閣寺の破壊が行なわれた。
さらに1558年には、銀閣寺一帯が戦場となり、残されていた建物も大部分が焼失してしまった。
1569年には、織田信長までが銀閣寺の須弥山を表したという有名な九山八海石を運び出している。ちなみに、九山八海石は、その後点々として現在は金閣寺の池中に浮き石として残されている。
このようにして、義政の死後、80年にしてすでに銀閣寺は奪い尽くされ、破壊され尽くしていた。

庭園内外部に見られる人工的造形

義政が逝ってから、足利家は衰亡の一途を辿る。代々の将軍たちは、放浪したり暗殺されたり、名ばかりの存在となっていく。そして、15代義昭にいたり、信長に追放された哀れな室町幕府は露と消えた。
銀閣寺はどうか。
長いあいだ、廃墟と化していたが、1585年より1612年の27年間にわたり、前太政大臣の近衛前久が慈照寺を自らの邸宅して住んだために、改造を加えられた。
また、1615年、宮城丹波守豊盛が再建工事に着手、ついに銀閣寺は復活のチャンスを得る。庭や諸堂が一新され、新規な景観であったという。さらに1639年には、豊盛の孫、豊嗣がさらに改造を施し、その際、現在の参道が造営された。
現在の銀閣寺を訪れ、まず驚かされるのが、この参道である。総門から中門に最短距離でアクセスすべきところを、あえて長い道を歩かせる。総門をくぐると、参道は右に直角に屈曲し、さらに進むと今度は左へ直角に折れ曲がる。しかも参道左右は人工的に四角く刈り込まれた生け垣で遮断されており、遠近感を強調するヴィスタの手法が使われている。
こうした人工的傾向は庭園内部にも見られ、砂を45度の角度で波状に整形、また円柱状に造形している。

義政の果たせなかった夢の実現

洛中名所集宮城一族による再建によって、焼け残った東求堂と観音殿に加え、方丈、庫裡が新たに造られた。その頃、銀閣寺は、穢土と浄土を表した二段構成は失われ、上段は土砂に埋まり、穢土である下段だけが文字通りの地獄のような廃墟の様相を呈していた。
ところが昭和に入り、住職の菅憲宗師の一大事業として、上段の枯山水を一部発掘し、二段構成であったことが証明された。しかし、上段の大部分はいまだ手つかずであり、西指庵も漱蘇亭も、美しい月待山の下で沈黙を保ったままだ。
じつのところ、慈照寺の観音殿は、当初から銀閣と呼ばれていたわけではない。義政生前の東山殿時代、その後慈照寺となって荒廃していたころに、観音殿が銀閣と呼ばれたことは一度もなかったし、ましてや寺の通称を銀閣寺と呼んだことも一度もなかった。ちなみに、鹿苑寺金閣は、義政時代にすでに銀閣と呼ばれていた。
現在の通説では、金閣が三層のうちの上二層に金箔が施されているのに対し、銀閣は義政の死によって未完成に終わったために銀箔を施すことがなかったか、あるいは当初から銀箔を押す予定はなかったなどと言われている。それでは、銀箔が施されていないのにもかかわらず、銀閣と呼ばれるようになったのは、なぜか。
銀閣の名称の初見は、1639年の再建の直後、1658年刊行の『洛陽名所集』であり、以後、さまざまな記録に銀閣あるいは銀閣寺の名が表れる。
箔を押したり、彩色や漆を施す際、必ず下地に胡粉という白い塗料を施す。現在の銀閣を見ると、天上や床には胡粉の跡がなく、素木であったことがわかる。また壁は縦の嵌板であり、箔を押すことは不可能だ。壁を観察すると、胡粉のほか、漆の跡が残っており、どうやら金閣二階の壁と同様、漆塗りであったことが判明する。それでは、やはり銀箔を施した可能性は皆無なのだろうか。
じつは、庇の裏に胡粉が施されつつも漆の跡が見当たらない。また、庇の裏に彩色を施すことは、例がない。庇裏の胡粉の成分を分析した結果、やはり銀が検出された。したがって、目下のところ、軒下に銀箔を施した可能性が高いと言われている。
それでは、なぜ軒下にのみ銀箔を施す必要があったのだろうか。銀沙灘や池に反射した月光を、さらに軒下に反射させて室内にもたらすための仕掛けであったと推測されている。
銀閣の東正面には、その名のとおり、月の出を待つための月待山があるが、江戸時代の再建の際、両者の軸線上に洗月泉と呼ばれる滝が造られている。つまり、江戸時代の造営において、観月の楼閣である銀閣の性格が、ことさら強調された節がある。それは、向月台という、同じく再建時に建てられた砂の造形の名称からもじゅうぶんに察することが可能だ。
同じく、砂で造られた銀沙灘は、波状の造形を持っている。これもまた、月と関係しているのではないか。第一に、銀閣二層の名称を、義政自身が潮音閣と名づけたが、これは月の引力によって潮の満干を繰り返す音をイメージしたものだ。
第二に、銀沙灘はほんのわずかだが銀閣に向かって傾斜しており、まるでライトアップのように月光が反射して銀閣を照らし出す仕組みになっている。使われている砂は、京都の白川砂だが、斜長石や石英で出来ており、光をより強く反射させる。その、銀沙灘の反射をさらに室内にもたらすために、二階の軒下に銀箔を施したのではないか。以後、銀閣と呼ばれるようになったのではないか。
このように、江戸時代の再建においては、以後、銀閣寺の別称が普及するように、観音殿銀閣を中心に、その観月目的をさらに強化したように思える。少なくとも、義政の時代の中心施設は西指庵であって、銀閣はいまだ建設途中であった。
つまり、慈照寺再建に際し、宮城一族が強く意識したのは、なにを差し置いても、義政が欲しつつも見ることの出来なかった銀閣の月だったのである。義政の夢を叶えることが中心的な主題だったはずだ。

ルイス之印

■銀閣(慈照寺)
京都市左京区銀閣寺町2
拝観/8:30-17:00 大人500円
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