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椿
椿

落椿の乱調のしらべもまたよし

早春のまだいくぶん肌寒いよく晴れた日に、嵯峨野や西山、大原を歩いているとよく出会う、竹林のなかに咲く薮椿の紅い色ほど美しいものはない。
こうした光景を見るたびに、京都の美を強く実感する。
おなじような風景は全国いたるところにあるにもかかわらず、それを京都に特有の美だと思うのは、それが自然そのものに見えながら、巧妙に人の手が加えられ、自然と人工が紛らわされて渾然一体となった、都ぶりとしかいいようのない虚構の美であるからだ。
椿にかぎらず、京都の花の美しさは、歴史や風土、建造物、庭園、美術、工芸、果ては天候までが一体となったことよって見えてくる、いのちの輝きが仕組まれている美の有り様にある。
椿は好きな花のひとつではあるが、いわゆる椿愛好家のそれではない。したがって、珍種をはじめ、何百本もの椿が一面に植えられている椿園というものには、まったく興味がない。椿そのものだけを見るならそうした園生も素晴らしいが、ものとしての椿ではなく、いのちとしての椿の美を愛でたい人種に、私は属する。そうしたことから、数ある椿のなかでも、自ずと、原種の薮椿の巨樹や、園芸種ではあっても長い年月のあいだに野生と化して、風雪に晒され、自然の風姿をまとった椿の相に魅かれていく。

が、唯一、例外的に訪れてみたいと願う幻の椿の園生が、ないこともない。

修学院離宮を造営されたことでも知られる、寛永期の後水尾院の椿園が、それだ。有名な紫衣事件で江戸幕府と対立し譲位した天皇は、立花や茶の湯を愛し、譲位のあとに完成した仙洞御所の花畑にはさまざまな椿が集められ丹精していたといわれている。
椿は我が国に自生する花で、古代より賞玩されてきたが、室町時代後期に流行を見てのち、今日の椿の園芸化の流行は江戸時代からで、後水尾院はその流行の中心にいた。
椿の咲く時節に仙堂御所のまえを通るたび、考えるともなく、かつての後水尾院の椿園を夢想することがある。後水尾院は立花を愛し、自身も二代池坊専好について修練を積み、その技は堪能で、在位中のある年などは三十三回にも及ぶ立花会を御所で催している。その折描かれた立花図が今も伝えられているが、冬から春にかけて、松や竹、梅に添えるように椿が用いられている。そうした折りの椿は、きっと、仙堂の椿園から切りとられたものにちがいなく、そうした折々の立花の姿を思い描きながら御苑を巡っていると、いつの間にか寛永時代にタイムスリップしている。そして、その立花会に居合わせているような気分に陶然とすることがある。京都の魅力とは、一輪の椿からでも、歴史に彩られた人々の物語を紡いでいく楽しさなのかも知れない。
椿は初冬のりんと静まりかえった佇まいも魅かれるが、落椿の乱調のしらべも椿の情趣として格別のものがある。

この時季、早起きして東山の法然院を訪れてみるのもいい。掃き清められた参道に、まるで散華を見るような落椿が鮮やかである。
しかし、息を呑むような落ち椿に出会うのはそうした市内の寺院よりも、むしろ人里離れた往来の少ない脇道などを歩いていて、不意に出会うことが多い。
もうかなりまえになるが、北山の小野郷から大森の里を歩いている折り、村の小さな神社の祠の屋根といわず参道といわず、ともかく神社全体が落椿の群落に包まれたような光景に出くわして、しばらく茫然と立ち尽くしてしまったことがある。自然の持ついのちの濃密な生を見た気がしたものだ。

(法然院)

ルイス之印
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