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坪庭
坪庭

坪庭の耕造

建物のあいだ、あるいは垣根の内側に設けている庭を「つぼ」と呼ぶ例は、古くは枕草子に見えてくる。
それは外まわりに広い空き地を有する敷地内の「つぼ」である。「つぼ」はもともとは壷であって、くぼれ、つぼんでいる、そういう形状から「つぼ」と称される空間が敷地内に見立てられると、「坪庭」が生まれる。
また、宮中の女房部屋にはそれぞれに「つぼ」が設けられ、そこに植えられた植物が目印になったところから、萩壺、藤壺、桐壺などの女房部屋を呼び分ける習わしがあったことは、源氏物語に見えるとおりで、「つぼ」に住む女房が「つぼね」である。こういう一連の「つぼ」の用例が色好みの文脈に支えられていて、女性の身に備わっている「つぼ」をいつも暗喩として含んでいるのは見やすいことである。
しかし、話が京都の町屋の坪庭のことになれば、古来の「つぼ」の系統だけでは説明のつかないところが表れる。
上代、中古はもとより、江戸近世になっても、京都御所の中とその周辺に集まっていた宮廷人、公家の屋敷は、となりと壁ひとつ隔てて並び立っていたわけではないから、「つぼ」は屋敷にひとつとかぎったものではなかった。
ところが、南北の大路小路、東西の大路小路が直角に交わって条坊というものを形成していた京の町なかの町人、職人の住まいは、軒を連ね、境を接して狭苦しく建てられる他なかった。正方形あるいは短冊形の町割りの必然から、いち町内の中央に近づくほど、一軒の家の敷地は奥に深くなっていく。いわゆる「うなぎの寝床」が生じ、棟が短くて棟から軒先までが長い屋根の下には、門口から一直線の屋の内を走り抜けられる細長い空間に、台所が設けられる。京言葉で台所を「走り」というのは、「走り庭」の略称である。庭というのは、本来、屋外と屋内の区別がなく、敷地内の仕事場になる地面のことなのだから。
「走り」抜けて家の裏に出ると、なお余分の土地が空き地となっている。物置、土蔵を突き当たりに設ければ、そのまえには「裏庭」が出来る。
さて、こういう造りの町屋の規模が多少とも大きくなると、表通りに面していて商いのために用いる部分をその奥の住まいと分離し、「店の間」の棟、「主屋」の棟を別建てにして、ふたつを「内玄関」でとりあわせるような建てかたがあらわれる。
こうなると、「内玄関」のまえに、屋根のない空間が発生する。採光の働き著しいこの空間が、京町屋の「中庭」である。そこは漆喰叩きで固められていたり、平石を敷きつめてあったりして、土を露呈させていることは、けっしてない。また、庭というには草木が植えられているかといえば、緑の葉など少しも見られないこともある。しかし、多く場合、この「中庭」には、棕櫚竹が数株、片隅にわずかに土を残したところに植えられている。棕櫚竹はヤシ科、中国大陸南部の原産であるが、背が高くなっても一軒の軒先を越すことはなく、また、錯綜した根が土を抱き固めているので、雨が強く降っても、根もとの土が流れだして、大切な「内玄関」の漆喰叩きや石敷きを汚す心配がない。「中庭」に最適の植物として棕櫚竹を選ぶにいたったのは、京都人の生活の知恵である。
「内玄関」の「中庭」には、井戸があったり唐傘棚があったりする。そして「中庭」に面する主屋の大戸には、格子造りの猿戸が切ってある。ここが勝手口。猿戸をからからと開け、瀬をかがめて大戸の敷居を越せば、主屋の「走り庭」に通じている。
主屋の座敷には、必ず植木の庭が設けられている。この庭は、たとえ主屋の建物と奥の土蔵あるいは隠居所の建物、そして垣根に取り囲まれていても、「坪庭」とはいわない。こういう座敷の庭のことは、「庭先」という。
主屋の建物の入り込み加減によっては、「庭先」とはべつに、座敷に面していない狭い庭が、建物の陰に設けられていることがある。こういう庭は「坪庭」で通用する。広さは1坪か2坪ほど。古来の「つぼ」から離れて、1坪2坪の庭だから、「坪庭」である。
そういう「坪庭」に数奇を凝らすようになったのは、明治以降のことである。板ガラスの普及にともなって、雪見障子というものが、まずは東京芝の紅葉館、ついで永田町の星岡茶寮などに取り入れられて評判になると、やがて旧都にもこれが流行する。たとえば、櫓こたつに頬杖をついて、下半分が透明な障子越しに、雪の「坪庭」を眺めるのは、板ガラス普及以前には、人の知らなかった新しい乙な気分ということになる。

(無鄰庵)

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