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西芳寺(苔寺)
西芳寺(苔寺)

天国と地獄

最古にして最上の庭園

通称「苔寺」と呼ばれるその庭は、京都の西、洪隠山の懐に静かに眠っている。
このあたりは、北に松尾大社や天龍寺、南に桂離宮が位置し、東山や洛北とならんで京都の観光名所のひとつとして知られている。
西芳寺川に沿って歩いていくと、やがてひっそりとした総門が、川向こうに見えてくる。橋をわたり、総門をくぐると、両脇を樹木に覆われた参道がさらに続く。このプロローグが、気持ちをはやらせる。そして、庭園と対峙した瞬間、誰もが息を呑むにちがいない。地肌一面、約120種に及ぶ青々とした苔にびっしりと覆われた池庭が、眼前いっぱいにひろがるのだ。

この庭こそが、現在、世界遺産にも指定されている京都を代表する名庭のひとつ、西芳寺庭園だ。名庭と呼ばれる由縁は、他の数多くの著名な庭園の原型とされた点にある。この庭園を模して造られたものが、どれほどあることか。また、直截に模さないまでも、京都の名だたる庭園のほとんどは、西芳寺庭園の影響を受けている。

西芳寺庭園は、室町初期に、禅僧・夢窓国師によって造られた。遺跡や復元された庭を除いた、生きた庭園としては、最も古い庭園に属する。
芸術は試行錯誤を世の理とするならば、初めにして最上のものが造られた。もっとも、その最初期に天才が出現して、ほとんどあらゆる可能性を制覇してしまうのか、どの芸術分野でも見られるケースで、日本庭園もまた、その例に漏れない。

流浪の石立僧

もともとこの寺は、天平年間に名僧行基が開いた場所で、1339年、足利尊氏が夢窓国師を迎えて再興した。
石庭を自ら造った僧を石立僧と呼ぶが、夢窓国師は、その始祖といわれている。西芳寺も天龍寺も、彼が手がけた。平均年齢が50歳といわれる当時に77歳まで生き、なんと7代に及ぶ天皇・上皇から国師号を賜り、さらに足利尊氏の政治顧問を担当し、1万人を超える弟子を育てた。ほとんど、超人の域に達しているといっていい。
夢窓国師は、1275年、伊勢に生まれ、4歳のときに甲斐に移り住んだ。9歳のとき、仏門に入り、20歳になると各地に師を求めて流浪の学問僧となる。 51歳で初めて京都・南禅寺の住持となるが、そこに落ち着くことなく、鎌倉の浄智寺、円覚寺、甲府の恵林寺と住持を点々としている。それは、彼の徳を慕って集まってくる弟子や信者から逃れるためであり、その修行僧としての世俗を避ける態度は、徹底していた。
1333年、鎌倉幕府が滅びると、今度は京都の臨林寺の住持となり、さらに天龍寺を創建、そして西方寺の再建にいたる。
夢窓はこれら流浪の先々で、庭造りに精を出した。鎌倉の瑞泉寺庭園は彼が1327年に手がけた庭園の遺跡であり、岐阜の永保寺庭園も、彼が1313年頃に関与したといわれている。臨林寺や等持院にも、彼が手がけた庭園の遺跡が、わずかだが遺っている。そして、彼が流浪の末、石立僧として最後にその人生をかけて造営した庭園こそが、西芳寺と天龍寺のふたつの庭園だった。

自然にこそ目指すものがある

高僧として名高かった夢窓国師がなぜあえて作庭に手を染めなければならなかったのだろうか。彼の説法をまとめた『夢中問答集』には、次のような言葉がある。
志は煙霞にあり。
煙霞とは自然のことであり、自然にこそ目指すものがあると、彼はいっている。そして、次の一句がある。
山中には得失なし、得失は人の心にあり。
自然そのものには損得や利害などはなく、それらは人の心にあるものだ。損得や利害の心を捨てて、山水の四季の移り変わりを修行の手立てとし、真実を求めよ、といっている。
夢窓国師にとって、作庭とは、自らの修行であるとともに、人々に彼の仏法を説き、仏へ導く手立てであったことが、この句からはうかがえる。

「地獄と天国」の上下二段構成

庭園図
夢窓国師の庭に彼の仏法が込められているのだとしたら、果たして西方寺庭園には、どのようなメッセージが込められているのだろうか。
西芳寺庭園の特徴のひとつに、上下二段構成になっている点がある。下段は、苔の庭として知られる心寺池を中心とした池泉回遊式庭園。上段は、洪隠山の枯山水庭園であり、このまったく違うふたつの世界を、苑路で結んでいる。
下段は、水と植物による快楽的な世界。上段は、石で構成された険しく厳しい世界。そのように分けることが出来る。 これらの結界として、苑路の途中に「向上関」と呼ばれる門が設けられている。
『西芳寺縁起』によれば、もともと下段には西芳寺があり、上段には穢土寺があり、夢窓国師がふたつの寺を合体させて作庭した、とある。それにしても、穢土とは、なんという名だろう。西芳寺とは西方浄土、つまり清らかなあの世を表す言葉だが、それとは真逆の対照的な名の寺だ。
地獄の土は不浄で汚穢に満ち、浄土は天国だ。浄土と穢土、すなわち、天国と地獄が、上下二段のこの庭に構成されていることになる。
つまり、こういうことだ。夢窓国師は、仏教の宇宙観である須弥山の世界を造ろうとしたのではないか。須弥山とは、天国と地獄で構成された、あの世、のことである。
夢窓国師は、おそらく、須弥山世界を穢土と浄土の上下二段構成の庭として再現した。それを廻遊路で連結し、地獄と天国を行き来し、他界を体験させようとしたのかも知れない。
西芳寺の上段の石組みは、裏山に存在する数多くの古墳の墓石を利用したものだ。墓石を庭として観賞することは、あの世を見ることにほかならないか。しかもこの石組みを、古来より、須弥山石組と呼ぶ点にこそ、夢窓国師の意図が如実に現れている。

日本庭園の定石となる

西芳寺庭園のコンセプトは、他界だ。
この西芳寺の上下二段構成が、その後の日本庭園のひとつの形式となっていく。
金閣寺庭園も、そのひとつだ。西芳寺の瑠璃殿を模した金閣の建つ下段の池泉回遊式庭園と、夕佳亭の建つ上段の二段構成を持つ。1397年、将軍足利義満の北山殿として造られたものだが、彼は若年の頃よりしばしば西芳寺の指東庵で座禅を組むほどの入れ込みようであった。
また、銀閣寺庭園も西芳寺庭園の上下二段構成を取り入れている。銀閣の建つ下段の池泉回遊式庭園のみならず、西芳寺の縮遠亭、指東庵、西来堂、向上関、瑠璃殿、合同船、激月橋、湘南亭に対応して、銀閣寺に超然亭、西指庵、東求堂、太玄関、銀閣、夜泊船、龍瀬橋、釣秋亭を造るなど、その模倣は徹底していた。
銀閣は1490年、将軍足利義政によって造られたが、彼は豪雨のなかですら西芳寺庭園を訪れ絶賛し、女人禁制の西芳寺をひと目母に見せたいと、母の住む高倉殿に西芳寺庭園を再現したほどであったという。ちなみに自ら着手した銀閣寺の西指庵には、夢窓国師の色紙を貼った襖があった。
この他にも、醍醐寺三宝院や明治以前の修学院離宮、桂離宮などにも受け継がれていく。さらに桂理由を造営した八条宮家の他の別荘、開田御茶屋、高峰御茶屋、御陵御茶屋なども上下二段構成であり、もはや定石になった観がある。

ルイス之印

■西芳寺(苔寺)
京都市西京区松尾神ヶ谷町56
拝観/要予約 大人3000円
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