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桜
桜

桜と妖女

「花を見に行きまひょ」
京都の女性は春になると心なしか面立ちがはなやかになる。
春めいてくると、三方を山に囲まれた古都は、あちらこちらから春の気配がする。
「祇園さんへ花を見に連れとくれやす」
芸妓たちがこう言えば、祇園さんは八坂神社のことで、花もあの枝垂れ桜のことを指す。春の夕暮れ、八坂神社の脇を抜けて円山公園へ足を踏み入れると、隘道のようになった桜の道に提灯籠が灯り、甘酒小屋が軒を出している。ぐるりと周囲を見まわすと、薄紫の宵空に照明で浮かんだ枝垂れ桜が鮮やかに眼に飛び込んでくる。遠目にも美しいが、樹の下に寄って仰ぎ見るこの桜のあでやかさは、東西の桜のなかでも一、二を争うと言う人がいるほどだ。

京都は桜の名所が多い。

そのほとんどは寺社の境内に咲くものが多い。この桜は、平地の桜である。眺める人が樹のそばまで参ることが出来る。桜の種類としては、ソメイヨシノが多い。ソメイは花びらが大きく重量感があり色味が派手な桜である。大衆が好む桜でもある。
ソメイは江戸期になって江戸の染井に住む植木職人が品種改良してこしらえたもので、桜としては成功を収めた作品である。これが全国にひろまったのは明治になってからで、神社の境内や官舎、校舎、公園などに名所ごしらえを兼ねて植えられた。その樹が今も人々の眼を楽しませてくれている。
これに対して、もともと日本に古くからあったのは、山の端や麓に咲いていた、ヤマザクラである。こちらはソメイと比べると少し花も小ぶりで色味も滋味である。
吉野の山中に棲んだ西行法師が詠んだ桜も、おそらくはこのヤマザクラだろう。
庭にして眺める桜なら、ヤマザクラはまことに風情がある。それも一、二本がいい。

桜は、少し用心したほうがいい。
はぜの樹のように、身体に障るという意味ではない。
何年かまえ、遊び疲れた明け方に、ひとりで白川通を歩いていて、岡崎まで来たところで疎水べりでひと休みした。
まだ夜が明けるまでにはひとときある空模様で、水に映る天上も藍が少しずつ溶けて紫に変わろうとしていたころ。
三月の終わりで肌寒さが残っていた。
空気の冷たさも風景の色彩も、好きなものではあった。おまけに頬に当たる風も申し分なかった。
眠気も中途で風が止める。かといって意識はおぼろである。
笛の音がどこからともなく聞こえてきた。幻聴であろうとさして気にもとめずに佇んでいると、平安神宮に続く道にかかる橋を、ひとりの女がわたっていた。
こんな時期に……、
と見つめていると、女は橋のうえで立ち止まり、欄干に手を置いてじっと水面を見ていた。
まさか身投げでもあるまい。
と、白地の着物のありさまを見た。
女はじっと動かない。
こちらも気になるから眼が離せない。
また笛の音が聞こえた。
女は南の知恩院の方角を見た。わずかに上げた顔がまことに美しかった。どこか見覚えのあるような気がする。
思わず立ち止まって女を見た。女もこちらの気配を感じて、見返した。眼と眼が合うと、やはり以前会ったように思える。
かすかに女が会釈をした。こちらも会釈を返した。女が口許に手を当てて笑った。
「さて、どこでお会いした方やら……」
と、照れ笑いをしながら女のほうへ歩きはじめると、女は急に歩き出した。その勢いにためらってしばらく女を見送った。そのままにしておけばいいのだが、元来の卑しさか、やはりどちらでお会いしたかと確かめようと追いかけると、橋のたもとに立って四方を見つめても人の姿はなかった。
どこへ行ったのか。と思いつつ、しばらくそこに立っていた。
夜が明け出して、仕方なく橋をわたり出すと先刻女の立っていた場所に花びらがかたまるように落ちていた。
見上げても、桜の樹はなかった。
首をかしげて自分の衣服を見ると、桜の花びらが無数についていた。また桜の化身かと、歩き出すしかなかった。

桜は、用心したほうがいい。

(円山公園)

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