都構想の住民説明会

都構想住民説明会

特別区設置(いわゆる都構想)の住民説明会に行ってきました。
開演50分前の9:40に、会場になっている1,000人収容のハービスホールに行くと、すでに長蛇の列。ぎりぎりで入場できました。
あと15分遅かったら、ネット中継の部屋にまわされたんじゃないかな。。
何度聞いてもわかりません(笑)
なぜわからないかというと、この話が、制度論に終始しているからです。
政令指定都市の大阪市を解体して、5区に再編成して、広域でやる部分は大阪府(起債許可団体ですよね?)に財源と人的資源を移し、住民に近いところの施策は区が担当する…。
そういうふうに制度を変える、ということらしい。
主に財源と人的資源が各区と大阪府と一部事務組合?に分散されることのメリットとデメリットについて、あちらこちらで論争が起こっています。
論争というか、賛成派と反対派が、それぞれで声高に主張しています。
これは制度論なのだから、行政の制度について詳しくない、それどころかほとんど知らない僕たちに、大きな制度改革の決定を委ねるのは、まちがっています。
そんなもの、わかるはずがない。僕は、行政の制度なんか気にせずに、普通に、周辺10kmくらいの範囲で生きてますよ(笑)
制度改革の決定は、その制度を監視している人たち、代議士の人たちで決めていただきたい。つまり、議会でやるべき案件ではないのですか? 僕たちは、そのために、代議士を、選挙で選んでいるのだから。
ひとつひとつの施策については、僕たちはちゃんとはわからない。だから、信頼できるこの人に決めてもらいたい、そうやって、僕たちは代議士を選挙で選んでいるのではないですか?
この案件を住民投票に下ろしてきたことは、代議士たちの敗北だと、僕ははっきりと思っています。
この件を含めて、政治家の言葉は、どうしてこうも貧しいのだろうか、と思います。
今回も、あらためて思います。
都構想にかぎらず、あらゆる政策は、未来予測です。
未来予測なので、現状だとこうなりそうだから、こうしよう、この政策で、未来をこんなふうに持っていこう、と、するものです。それはあくまで予測であり、希望であり、場合によっては願いであり、祈りでもあって、確実なことは、誰にもわかりません。賛成派と反対派のどちらの意見にも分があるようであり、ないようであり、結局のところ、どちらもそれほど正確なものではないのだろうということは、予測できます。どちらの言いぶんも、簡単に鵜呑みにはできないよ。
賛成派は、いいこと「しか」言いません。反対派は、悪いこと「しか」言いません。言い換えれば、相手を負かす言葉しか、持ち合わせていない。
だから、どちらの言いぶんも、出してくる数字も、バイアスがかかっているとしか思えないのですよ。都構想なんて、まさにそう。賛成派と反対派のどちらが出してくる数字も、予測も、バイアスがかかっているとしか思えない。双方のコストカットの試算、経済効果の試算、区で独自色が出せる住民サービスに充てられる財源の試算などに大きな開きがあるのは、そういうことです。
なにもかも、いいこと尽くしのはずがない。悪いこと尽くしのはずがない。
都構想にだって、いいことと悪いことがあるはずです。全体的にはよくても、ここは厳しいかなってところもあるはずです。
そういうことを冷静に腑分けして、ここはもしかしたら、ダメかもしれない。リスクがあるかもしれない。でも、全体としてメリットが大だからやりましょう、あるいは反対しましょう。そんな言葉を、僕は聞いたことがありません。
メリット・無限大、リスク・ゼロなんてことは、ありっこない。
これくらいのリスクは予測されるけれども、でっかい夢があるから、それで行こうよ、この線でオレに任せてくれないか、という言いかたをする政治家に、僕は会ったことがありません。反対派の人も、そう。
僕が信じている数少ない政治家の三宅洋平は、一昨年の参議院選挙で、選挙は戦ではなく祭りだと言いました。コミュニケーションの場だと言いました。
相手を負かすのではなく、相手の言いぶんを理解する、こちらの言いぶんをわかってもらう、そうやって、相互理解を深めて、今の政治に、僕たちの色を少しだけでもいいから入れてもらう、そういうことを、彼は言っていました。そのために、言葉の粋を尽くし、徹底的に語り尽くす、アイヌで言うところのチャランケをやるんだと、彼は言っていました。
ミュージシャンである彼は、ひとつの音楽で伝わらなければ、べつのバージョンで、べつの言葉で、べつのリズムで音楽を奏でます。アルバムで、12インチシングルで、クラブミックスで。それは、コミュニケーションのためのものだから。そうやって、彼は、ユーモアを交え、とんちを駆使し、本気で、丁寧に、真面目に、ファンキーに、グルーヴィーに、言葉と音楽を紡ぎ、選挙をおこなっていました。
フライヤーつくって(選挙ビラつくって)、人集めて(集会開いて)、音楽を奏で、なにかを伝える(演説する)。そのような、選挙の段取りは、じつは、ミュージシャンが音楽活動のなかで連綿とやってきたことです。でも彼らは、相手を負かすためにそうしてきたわけではない。コミュニケーションをとるために、相互理解を深めるために、そのようなことやってきた。なぜ、政治家は、そうではないのか。
結果、彼は、全国各地の遊説で史上空前の聴衆を集め、自民党で当選した人以上の票を獲得したけれども、政党別の得票比率のせいで、落選しました。
でも、彼の言葉はとてもよかった。
政治家が、彼が、公約を守ってなかったら、選挙事務所に行って、ヨウヘイ、選挙で言ってたことができてないよな、なにか困ってることがあるんじゃないか、手伝ってやるよ、と、言ってきてくれ!と、彼は、選挙で言ってました。
お前は公約が守れてないじゃないか、と、攻撃して、政治家を孤独にするのではなく、公約が実現できてないと思ったら手伝ってやれ、と、彼は訴えていました。
彼の掲げる政策は、左寄りで、ある種、青臭い理想のものです。
それでも、彼の姿勢、彼の言葉、彼の発想、彼のやりかたは、僕の胸を打ちました。
言葉の一方通行ではなくて、相互理解を深めるようなコミュニケーションをとろうとする彼のようなやり方をする政治家は、少なくとも、都構想の枠のなかでは、賛成派であれ反対派であれ、僕は見たことがありません。
賛成派の政治家も、反対派の政治家も、根っこでは、大阪を今以上のものにしたいという誠実な態度が出発点になっているはずです。はずだし、そう信じたいけれども、どちらの言動も、大阪をよりよくするための思いが出発点となっての言動だと、僕には聞こえてきません。相手を負かすための、罵詈雑言にしか、僕には聞こえません。
そういう政治家だらけのなかで、なぜか制度論が住民投票にまで下りてきてしまった今、仕方なしに考え続けています。
住民説明会に行っても、理解が深まることはありませんでした。
そういうなかでつらつらと考え、僕が出したひとつの結論は、大阪市が解体され、大阪の行政システムが再編されようがされまいが、僕の生活や僕の活動環境はそれほど変わらないのではないか、ということでした。
地域では、さまざまな活動にかかわっていて、行政の協力を仰いでいることもたくさんあるけれども、それでも、僕たちは、できるかぎり、行政を頼らずに、彼らから離れたところで活動をしていきたいと考えて、やってきました。助成金や補助金を頼りにしたことも、ありません。はっきりと、頼りにならないからです。その頼りなさは、制度が変わろうが変わるまいが、変わらないと考えています。
行政相手に商売したことも、ありません。委託事業に応募したことも、ありません。
つひまぶは今、行政からお金をもらって発行しているけれども、それだって、僕は一刻も早く独立したいと思っているし、早晩、独立します。
水道料金は多少変わるのかもしれない。なにかのお金が、多少、上がったり下がったりするのかもしれない。それでも、そんなことは本質とは離れたことなので、多少のことはどっちでもいいです。
北区を主戦場に活動している僕の移動手段は主に自転車なので、今以上に北区のエリアがひろがって、淀川を越えることになったら、自転車でグルグルするのはしんどいな、くらいで(笑)
感情論として、「大阪市」というものがなくなることへの抵抗感は、あります。
でもそれとは、切り離して、今回の問題は考えてみたいと思っています。
まだ時間はあるので、もう少し考え続けてみて、結論を出そうと思っています。
そうそう、この選挙には、ひとつ落とし穴があります。
有効得票数の半数が「賛成」と書けば、住民投票の結果は「賛成」となります。たとえば、10人が投票に行ったとして、6票が賛成票であれば、この選挙の結果は、「賛成」です。投票率は一切考慮されません。そういうことが、声高にではなく、しれっと書いてあります。
最高裁判事の信任選挙に似てます。白票や投票拒否行動は、分母である有効得票数の数字を減らすだけなので、このルールは、「賛成」に有利にできています。最高裁判事の信任選挙で「不信任」の結果が出た選挙なんて、聞いたことないもんね。
だから、「反対」の人は、ちゃんと反対の意思表明をしたほうがいいです。むろん、反対であれ賛成であれ、選挙なのだから、行くべきです。
投票用紙には「賛成」か「反対」かしか記入できないそうです。漢字でもカナでもOK
でも、「◯」とか「×」を書くと、無効になってしまうそうです。

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