「水俣病を伝える」

みんぱくの特別展「日本の仮面」を見に行ったついでに、本館の奥で開催されている「水俣病を伝える」をどうしても見たかった。
https://www.minpaku.ac.jp/ai1ec_event/47870

大阪で暮らしていると、水俣のことはなかなか伝わってこない。
もう過去のこと、そんなことがあったの?という人がほとんどで、先日、環境大臣と水俣病団体の懇談で環境省の役人と大臣が血も涙もない措置をとったおかげでニュースになり、水俣病問題がまだ終わってないことを知った人も多いはずだ。
大阪からは遠い場所のことなので、なかなか自分事としてとらえにくいものではある。

14年前に、東日本大震災があり、原発事故があり、大阪でも放射能に対する考えかたで分断が生まれた。
ニットによる東日本大震災の震災遺児支援ボランティアを立ち上げたとき、この、分断をどうとらえたらいいのか、水俣の事例を研究していた関西大学社会学部社会システムデザイン専攻の草郷孝好教授をイベントに招いて、「もやいなおし」のことをお話してもらった。
僕にとっての水俣は、そのときからだ。
そんときの講義の様子は、TJWKのHPに残してある。思えば、TJWK最初のイベントはこの日からはじまった。
https://atricot.jp/tjwk/archives/1689
そのときから、水俣病問題を自分事としてある程度とらえることができるように、アンテナが少し伸びた。

「地元学」は、1990年代に、水俣市職員だった吉本哲郎さんが考案した地域づくりの手法だ。
地域住民が外の人たちと地元の環境や生活文化を調べ、地域の個性を発見し、それを生かした生活文化を形成していくもので、地方にありがちな「ないものねだり」をするのではなく、「あるもの探し」をしようというのが肝。コロナ禍を経てのマイクロツーリズムにも通じる考え方だと思うし、東日本大震災を境に、足元を見つめ直すような「my home town」の動きともシンクロしている。

水俣病の発生により、
水俣病患者とチッソは、当然、対立した。
でも、ややこしいのは、たとえば親戚内にチッソやチッソ関連の会社に勤めている人がいて、チッソがつぶれたら生活に困る人がいるわけだ。
さらに、水俣市の税金の7割近くがチッソ関係からのものだった。
そんな状況のなか、水俣病患者とチッソの対立は、家族内やコミュニティ内にも持ち込まれていく。
風評被害もあった。
海のものにかぎらず山のもの、農作物までもが、水俣産というだけでまったく売れなくなった。
沖縄の基地問題から福島の処理水の放出問題まで、この手の話は全部が地続きで、同じ問題が繰り返されているように、僕には思える。

おたがいが信用できない、「不信社会」のまちになってしまった。それが、水俣病に見舞われたまちだった。

企画展「水俣病を伝える」は、みんぱくの50周年記念事業として開催されている。
創設50周年の記念企画展に水俣病を取り上げるというところに、世界最大の民族学の研究機関を標榜する博物館の矜持を見る思いがする。
病や公害とどう向き合ってきたのか、どのように伝えるのか、どのような伝えかたがあるのか、どのような人間の感情があるのか。そこには、民族学が向き合わねばならないテーマが凝縮されているのだと、言わんばかりだ。

「人さまは変えられないから、自分が変わる」。
この言葉は、14年前に関西大学の草郷先生を招いて講義してもらったときに出てきた言葉で、今回の展示でも出会った。
大阪もね、維新の躍進やら万博やらコロナやら、2派に分かれて分断がしょっちゅう起きている。もやいは、しょっちゅう切れるのだ。だからこそ僕は、ことあるごとに、もやいなおし!もやいなおし!て言うていきたいと思っている。
大阪の問題と水俣病の問題は、地続きなのだ。

石牟礼道子の『苦海浄土』の生原稿が展示されていた。ことばの奥深く潜む魂から、古代の巫女のような石牟礼道子が「近代」を鋭くえぐる。鎮魂の世界文学の瑞々しい最初を見ることができる。震えたよ。

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