京阪奈それぞれの博物館で開催されている国宝がわんさと出展されている展覧会は、全部スルーしている。
国宝ばっかりをこれでもか!とたくさん見ても、多すぎて消化不良でげっぷばかり出そうなので、遠慮しているのだ。ご馳走はたまに食べるから美味しいのであって、ご馳走ばかりが出てきても、それはそれでツラい。
仏像は、長く鎮座されてきたその場所でこそ、拝みたい。
その場所に留まり長く見守ってくださってきたからこそ美しくありがたいのであって、博物館の全方位から眺められる場所に移された時点で、その仏さんは多くのものを喪っている。
それなりの時間をかけてその場所に辿り着き、拝み、仏さんと対話し、帰路、思いを巡らせる時間を経て、その人の心のなかに、美ができあがっていく。
美は、マテリアルなものだけで構成されているわけではなく、美は、その人の心のなかにしかないのだから。
ワシはそんなふうに考えるので、
10個の国宝をいっぺんに見るよりも、時間をかけて、その場所まで行って、ひとつの国宝をじっくりと見たいと思う。
残りの9個は、これからの人生で出会う機会があるかもしれないし、ないかもしれない。なければないで、縁がなかったのだと、ワシはわりとあきらめがつくほうだ。
見たいものはどうしたって見るだろうし、出会うべきものなら、しかるべきタイミングで出会うものだから。
この春の京阪奈それぞれの博物館での国宝展示ラッシュは、無論、万博と絡めてのことだろう。
それに踊らされるのではなく、不易なものを見つめていたいと思う。
踊るのは大好きだが、踊らされるのはゴメンだ。
バブルのときにも似たようなことを思い、ワシは、乱痴気騒ぎの日本に背を向けて、ひとり、世界に旅に出た。
パーティー音楽ばかりが幅を効かせるなかで、地下世界で鳴らされるシリアスでタイトな音楽を好んで聴いてきた。
そのときに出会った音楽とは今も付き合っている。あのときに旅に出たことも、しっかりと今のワシをかたちづくっている。
あのときも、不易なものに目を向けてきたのだなあと、思う。
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