リハビリの夜 ケアと編集

『リハビリの夜』と『ケアと編集』

昨日はマチソワで「Bibliophile’s Cafe(本を紹介する会)」の日。
この春に読んだ本で、大変に感銘を受けた本を持っていき、紹介した。
『ケアと編集』。白石正明さんという、書籍の編集者が書いた本だ。
白石さんは、「医学書院」という出版社が刊行してきた『ケアをひらく』という福祉分野のシリーズを担当してきた編集者で、『ケアをひらく』シリーズは、ハズレがないと言われるほど高い評価を受けているシリーズだ。
僕は、このシリーズから出た『リハビリの夜』という本を読んだことから、この『ケアと編集』に辿り着いた。
今回はこの、『リハビリの夜』と『ケアと編集』の2冊を持っていった。

まずはこの『リハビリの夜』から紹介してみよう。
『リハビリの夜』は、現役の小児科医にして、脳性まひ当事者である熊谷晋一郎さんが書いた本だ。

電動車イスに乗っている熊谷さんは、東日本大震災のときに東大の研究室にいた。
揺れが来てすぐに避難しようとしたけど、エレベータが動かず、研究室にとどまらざるをえなかった。歩ける人は階段で地面に下りることができたが、熊谷さんはエレベータなしには避難できない。
このときエレベータだけに依存している自分と、階段でも下りられるし、いざとなれば避難ハシゴだって使えるという健常者とを比較して、「依存先が1個しかない」ことのデメリットを身をもって知ったと、熊谷さんは言う。
ここから熊谷さんは、「自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない」と思い至るようになる。

健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなモノに頼らないと生きていけない人だと、勘違いされている。
けれども真実は逆で、健常者はさまざまなモノに依存できていて、障害者は限られたモノにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚することができる。
じつは膨大なモノに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、〝自立〟といわれる状態なのだ、と、熊谷さんは言う。

熊谷さんは日常生活の多くを介助者に頼っている。しかし特定の介助者がどんなに良い人であっても、その人だけに介助を頼るようなことはしない。必ず複数の介助先に分散している。
その人が病気で倒れたりしたら困るから、という理由だけではない。その人に離れられたら困るという状態になると、熊谷さんとその人のあいだに支配/被支配関係が強く発生してしまうからだ。
部分的にでも信頼できる人が複数いれば、それらの人に少しずつ依存して、つまりタコ足のように多方面に足を伸ばすことによって、自らを支えることができる。
熊谷さんはそのような結論に達し、「自立とは依存先が分散されていることである」という、大変に含蓄のある言葉を紡いだ。
リスクヘッジの考え方を、障害者の依存先という観点にあてはめた考え方だが、手段を「依存先」と言い換えたことは、問題を分かりやすくする意味でも、とても秀逸な言い換えだと思う。

『リハビリの夜』には、そんな目からウロコなことがたくさん書かれているのだけど、この本の真骨頂は、じつは、違うところにある。
この本に繰り返し出てくるキーワードは「敗北の官能」というものだ。

たとえば、
医療現場でおこなわれる日中のリハビリは、「規範的・正しい動きへの矯正」だ。でも「夜」は、昼間のそれとは異なり、他者の監視がなく、身体との本来的な交渉がはじまる時間だ。制度的な訓練では閉じられていた五感が、自発的・自律的に開かれる。ここに「官能」があると、熊谷さんは言う。
では、「敗北」とはなにか?
たとえばトイレでの失敗。便器にたどり着けず失禁する。熊谷さんは、そのような、日常の中で敗北を繰り返す。
しかしその「できなかった」経験こそが、「私の動き」や「環境との関係性」を知る契機になる。失敗を通じて、他者・道具・空間と「つながっている自分」を知るわけだ。そして、正しさや健常性とは異なる、自分だけの身体性への目覚めへとつながっていく。ここに「敗北」のなかの「官能」があると、熊谷さんは言う。

リハビリに明け暮れた昼の後にやって来る夜に、熊谷さんは、できなさの中に潜む自由と出会う。
上手くできないことを通じて、熊谷さんは、初めて、「私の身体」を感じる。

一人暮らしでモノと格闘をしているときに何度も経験する敗北は、熊谷さんの運動プログラムや内部モデルに修正を迫る。修正というのは、あるかたちから別のかたちへと変化することだ。その変化の過程で一度、これまでのかたちをほどく必要がある。どうやって、トイレの便座に座るか。
この、修正途中で生じるほどけを、熊谷さんは「敗北の官能」と呼ぶ。
敗北によって自由度を高めた熊谷さんの身体と脳は、熊谷さんの意識が必ずしも届かない場所で、半ば自動的にトイレとのチューニングをはじめる。
モノと熊谷さんの身体は、関係性の再構築をはじめるのだ。

まちで失禁してしまったとき、これまで知らず知らずのうちに自分を支えていた「地面や空気や太陽」に意識が向いていった瞬間が語られる。
この瞬間、必要不可欠なモノとして、今、必要なモノとしての「ケア」が意識される。
「今」ということが強調される。もう、ほとんど、ロックだ。ロックンロールとは「今すぐ!」と叫ぶ音楽だから、熊谷さんがこのときに感じる感覚は、ロックでありパンクであり、ロックンロールだと言っていい。
今、必要なモノ、というのは、じつはこの後に続く『ケアと編集』に続いていく。

これ以降もたくさんおもしろい記述があるのだけど、これくらいにしておこう。
ちなみにこの本は、福祉の現場を超えて評判を呼んだ。本の帯は、星野源が書いている。
「ヤバい、超面白い。と軽々しく言ってしまいたくなるくらいに、洞察と官能と遊びと感動に満ちている」。

この本の編集を担当したのが、もうひとつ、紹介するために持ってきた本『ケアと編集』を書いた白石正明さんだ。

「ケア」と「編集」という、一見、共通点のなさそうなかけ離れた事柄には、じつは意外にも共通する点が多いと、白石さんは言う。

たとえば、今日を明日の手段にしないこと。これが「ケア」だと、白石さんは言う
「ケア」は、自分の身は自分で守るという「自立/自律志向」とか、最小のインプットで最大のアウトカムを得ようとする「効率志向」とは真逆に位置している。「未来の目標のために現在を手段にする」という姿勢そのものから、「ケア」はおよそかけ離れている。

先ほど、『リハビリの夜』で、まちなかで失禁してしまったとき、これまで知らず知らずのうちに自分を支えていた「地面や空気や太陽」に加えて、「ケア」が、今現在、必要不可欠なモノとして立ち現れてきたとの、熊谷さんの感覚を紹介した。

私たちの時間をとにかく前に進めるためのものが「ケア」だと、白石さんは言う。
この本を付箋だらけにした僕こそが、あれこれ悩んで時間を止めてしまったり、未来のために現在を犠牲にしがちな現代人の一人だが、そんな人々に本書が投げかける提案は、たとえばこうだ。
何かを「信じる/信じない」の根拠を求めて生真面目に悩むよりも、「ちょっとだけ信じてみる」こと。いったん「いいかげんに信じる」ことで、とりあえず一歩前に進める、と。

編集の場面でも、まったく同じことが言える。

文章の凹凸を削って、文章を直していくこと。
それは、「こんな文章では理解されない」という建て前のもとに、自分で理解できる範囲に著者の考えを矮小化しているに過ぎないのではないか。
なぜそう思うかといえば、今まで自分の担当してきた本で、バリバリと苦労して直した本が売れたためしがないからだと、白石さんは言う。
もちろん直さなければいけないような文章だったから売れなかったのだと言い張ることはできるけれども、「未知」というノイズを削り取ってしまった結果、「既知」のことしか書かれていないから、直した本人としてはすっきり分かりやすいけれど、読者にはなんのメリットもなかったのではないかと思えてくる、と。

とりあえずちょっと信じてみること。
この一点において、「ケア」と「編集」は似ている。

示唆に富む言葉がたくさん出てくる。
「モノサシを変える」ということについて。
白石さんは、努力や弱さを「克服すべきもの」と捉える従来型のモノサシを捨て、自分の「傾き」つまり、性質やクセ、弱さなどが そのまま輝くような視点を差し込む編集・ケアの手法を提案する 。
編集の現場でも、原稿の「良くない前提」を一律にただすのではなく、「その人らしさ」を際立たせるために背景や文脈を整えると、弱さを肯定するアプローチに変わっていく。

「問いの外に出る」。
「問いに答える社会」に対して、白石さんは、その問いを問いの外から眺め直すことをしている。

ケアの現場だと、「正しさ」や「目標設定」から自由になることが、「問いの外に出る」ということになる。
ケアの現場では、「この人がそれをできるようになるには、どうすればいい?」という問いが無意識に前提になる。
しかしその問いは、すでに「できないこと=問題」と見なす視点に、縛られている。
ここで「問いの外に出る」とは、「そもそも、できるようになる必要があるのか?」と問い直すことだ。
たとえば、「歩行訓練」ではなく、「車イスに乗ったままでどう豊かに暮らせるか」を考えること。
あぁ!これで、二項対立から鮮やかに自由になれるではないか。

こんなふうに、「ケア」と「編集」は、とても良く似ていると、ケアについて扱う本を何冊も「編集」してきた白石さんは思い至り、この本を書いた。
この春に読んだベストの本かもしれない。

僕にはまだ「ケア」が必要な局面は訪れていないのだけれども、自分の仕事のなかで、ケアや福祉について触れる機会が増えるにつれ、ここ数年は、興味の関心がそちらに向いている。
そこへ、編集を職業とされる、いわば僕と同業者の方が、「編集」と「ケア」の両方にまたがる領域で本を書かれた。
本でも音楽でも人でも、出会うべきときに出会うもんだと僕は経験的に知っているが、そういう出会い方だったように思う。この本は、長く手元に置いておくだろうな。

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