先日、天野さんのフラメンコを鑑賞して、40年以上前に読んだ本を急に読みたくなって(タイトルを思い出すところからはじめんとあかんかった)、3日間ほど本棚を漁りに漁って、やっと探し出した。(見つからなかったら買うつもりしていたけど、古書ですらあるかどうか…。いやその前にタイトル。笑)
『闘牛士エル・コルドベス 1969年の叛乱』。
1960年代、フランコ独裁体制下のスペインで活躍した伝説的闘牛士の栄光と挫折を描いたノンフィクション。
極貧の漂泊者が花形闘牛士となり、億万長者へ上りつめる。それを妬んだ既存勢力が彼を締め出そうとするなか、エル・コルドベスは彼らに宣戦布告をする…。
船戸与一に比肩するハードボイルドな筆致が、スペインはアンダルシア地方の赤い血潮を噴き上げ、諦念と情熱が交差する。
途中、空気をビリビリと引き裂くようなフラメンコのカンテ(歌)が響き渡るんよね。もうね、その歌声の中に、ロマの哀愁と祝祭と抵抗と歓喜がすべて詰まっているような、喜怒哀楽すべてが過剰に詰め込まれている時間。
フラメンコといえばバイラ(踊り)に目を奪われがちだけど、本質はやっぱカンテにあるのだと思わせる描写がある。
と、読んだふうなこと書いているが、40年前に読んだきりなので、細かいところはまったく覚えていない。貪るように、五臓六腑に染み込ませるようにして読んだ記憶だけがある。
開高健ノンフィクション受賞作品だと思っていたけど、このたび受賞作品リストを見てみたら、なかった。
記憶とはええ加減なもんやな。
60年代、ビートルズが世界を席巻していた時代に、フランコ政権下のスペインではまったく別の時間軸で時間が流れており、エル・コルドベスの闘牛やアントニオ・マイレナのカンテが若者のすべてだった。
ワシが世界中を旅して分かったことのひとつは、その国のメインのラジオやテレビで流れる音楽が米英の音楽だという国ばかりではないのだな、ということだ。
日本のように、洋楽といえば米英の音楽、というような国はほとんどなく、たいていの国では、自国の音楽とその周辺の同じような文化圏の音楽が流れている。
欧米の音楽がガンガン流れているような国は、アメリカの植民地だった経験を持つ、たとえば日本のような国だけではなかろうか。UKに統治されたインドですら、UKの音楽なんて流れていない。
タイではタイポップスがすべてだし、南米諸国ではサルサがすべてで英語の音楽なんてまず流れないし、エジプトではエジプトの大衆音楽であるシャアビしか流れていなかった。そこには、ビートルズはいなかったのだ。
12月8日にジョン・レノンを偲んでいる国や文化が、世界を覆っているわけではないのだ。
たしかに、
NYのからっ風がサルサを生み、その熱狂はプエルト・リコで花開いた。
アメリカの黒人音楽がジャマイカに飛翔して、スカやロックステディやレゲエが生まれた。
ナイジェリアの大地に着地した種は、王様フェラ・クティのファンク・ミュージックを生み、フェラはアフリカン・ファンクを携えて、世界中に精液をばら撒いた。
日本でその種を受け取った若者、大滝さんや細野さんや筒美京平や松本隆は、格闘の末にJポップに辿り着いた。
沖縄に降り注いだ太陽の粒からは、ハイサイおじさんが生まれた。
おなじブラックミュージックでも、違う文化圏の人たちがどれだけ忠実に真似たとて、最後の最後に、真似のできない、その文化だけが持つ固有のネイティブな発音のようなものが残る。
それが、レゲエを生み、フェラ・クティを生み、Jポップを生んだ。キヨシローを生んだ。
米英のブラックミュージックが各文化圏でクレオール化していくプロセスを俯瞰して追いかけるのも楽しいものだが、
でも、同時に、別の時間軸で流れるフラメンコのようなものも、世界中のいたるところにある。
パリのキャバレーで奏でられたミュゼ、トルコの民謡ハルク、アラブのカッワリー、ロマが各国で奏でる音楽…。
フランコ政権下で活躍したエル・コルドベスの闘牛は、ビートルズが世界を席巻するのに抗う、その国のポピュラー音楽を思わせる。
今、本を読んでいる時間はほとんどないのだけど、なんとか時間をつくって再読してみたい。
『闘牛士エル・コルドベス 1969年の叛乱』。
せっかく本棚の古層から見つけ出し、救出したのだから。



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