

『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』を読む。
ステージ上で「菩薩」とまで崇められ、文化人たち、竹中労や田中小実昌や小沢昭一らを虜にした伝説のストリッパー・一条さゆり。しかし、その素顔はアルコールに溺れ、寂しさに震え、虚言を繰り返す一人の脆い女性だった。
芸術か猥褻か、あるいは反権力やウーマンリブといった文脈で、その時々の運動のアイコンとして都合よく祭り上げられてきた経緯は、結局のところ「男性性の論理」の中で生き延びてきたロマンに過ぎない。今の時代から俯瞰すれば、それはひどく空虚で、つまらない話に映る。
そこにあるのは観念的な理屈ばかりで、切実な肉体性が伴っていない。ただの「脳内の出来事」に過ぎない、血の通わない概念の遊戯に終始しているからこそ、今となっては少しもおもしろくないのだ。
おもしろい、といっては不謹慎すぎるので、興味深い、くらいにしておくが、
華やかなステージを降りた後、彼女は釜ヶ崎へと流れ着く。日雇い労働者たちに囲まれながら、生活保護を受け、酒に溺れつつも、どこか誇り高く生きた晩年の姿は、読む者の胸を締め付る。
ジャニス・ジョプリンが、「ステージでは2万5千人と愛し合うけれど、家に帰る時はたった一人なの」とあの時代に言っていたのと、共通する孤独があるように思えた。
彼女は晩年、自分の過去を偽って語ることも多かったようだ。この本は、そんな彼女の「嘘」を暴きながらも、その嘘をつかなければ生きていけなかった彼女の孤独に、深い共感を寄せている。
一人の人間の中にあった、作り上げた「虚像」と剥き出しの「実像」の境界線。誰の心の中にもあるものやね。
ステージで「特出し」を売りにして、見せしめのように国家権力にパクられ、出所したのち、彼女は一念発起してスナックを2軒同時にオープンさせる。
その場所が、ワシの事務所のすぐ近くにあるスナックビルだと分かり、町内が登場するなど微塵も思ってなかったので、声をあげて感嘆した。
喫茶「ヤマ」の入るビルなので、「ヤマ」のマスターはご存知だろうか? 今度聞いてみよう。


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