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圓通寺
圓通寺

反骨の天皇の内なる声

比叡山への憧れ

後水尾院は、修学院離宮を造営するまえに、岩倉、長谷、幡枝の三ヶ所に別荘をもっていた。このうち、幡枝御殿を寺院にしたのが、圓通寺である。
山の斜面を削って整地した際、あらわになった岩盤をもとに、さらに40個ほどの石組みを配し、生垣、杉の木立、竹薮越しに霊峰比叡山を大胆に借景し、雄大な景観をつくりだすことに成功している。石組みを施した長方形の平庭は、見事な厚い苔に覆われ、ところどころにサツキの刈り込みが彩りを添えている。
後水尾院は、茶道、立花、詩歌など、さまざまな芸能に秀でた人物であり、退位後はまさに「寛永文化サロン」の中心人物となっていた。それらの芸能の舞台となる遊戯施設をつくることが、法皇の第一の目的だったのだろう。問題はそれを実際にどこで営むかということだ。きっと、その山荘の建つ場所の条件ともいうべきものも、このときすでに決まっていたに違いない。
おそらくは、桓武天皇が平安京をつくって以来、自らを含む歴代天皇を悪霊や鬼から守り続けている比叡山を拝める場所だったのではないだろうか。法体となる4年前の1647年には、早くも庭園に詳しい金閣寺の住職である鳳林承章らに命じて、衣笠山麓に適地を探させたが、ここにはすでに金閣寺や龍安寺など、古くからの別荘が禅寺として栄え、思わしい敷地が見当たらなかった。
また、後水尾院自ら出かけては、比叡山を臨むことが出来る山荘の地を物色したりもした。
たとえば、1647年には、東福門院とともに、後水尾院の実弟・道晃法親王の長谷の別荘に出向いている。お忍びの御幸であったとはいえ、相当の数の供を引き連れ、よく晴れた初冬の一日を松茸狩りをして楽しみ、また付近の物色にも余念がなかった。
この長谷の山荘は、山上に「上御茶屋」「中御茶屋」「下御茶屋」が離れ離れに配され、ここで休み、茶を飲み、広々とした風景の展望を楽しむという体験は、長年の隠居所仙洞御所での閉ざされた生活や、その人工を尽くした庭園に飽き足りない後水尾には、強く印象づけられ、のちに修学院離宮へと応用されることになる。
また、翌1648年には、もっと大掛かりな規模で、東福門院と後水尾の娘、顕子内親王、その他の女中衆の御乗物30台という行列を連れて、顕子内親王の別荘である岩倉御所を訪れている。この山荘も、長谷の別荘とおなじように、上下茶屋の構成となっていた。岩倉に着くと、後水尾院と女院たちは、険しい山路を登って山上の御茶屋から、はるか比叡山を臨み見ている。
さらに、翌年の1649年9月には、今度は後水尾院、東福門院、顕子内親王の他に、後水尾院を継いで天皇となったこともある後水尾院と東福門院の娘明正上皇を加えて、再び岩倉と長谷を訪れている。長谷や岩倉を再度訪れているのは、新しく造る山荘の場所を、これらの地に決定するかどうか迷っていたに違いない。
また、その御幸途中、後水尾院の別荘のひとつ幡枝御殿にも御幸し、ここで相当大掛かりな観月の宴を開いた。ここでも後水尾院は山に登り、比叡山を臨み見て思案している。この幡枝御殿の上御茶屋こそが、現在の圓通寺庭園である。幡枝御殿も、長谷や岩倉の山荘と同じく、上下二段構成を持っていた。こうした上下二段構成、そして比叡山の借景といったコンセプトが、のちに修学院離宮として開花することになる。
言い換えれば、圓通寺庭園は、修学院離宮のプロトタイプのひとつであったと言うことが出来る。

ルイス之印

■圓通寺
京都市左京区岩倉幡枝町389
拝観/10:00-16:30 大人500円
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