最近の神社仏閣は騒がしい

最近の神社仏閣は騒がしい

藤原新也の『印度放浪』に次のようなくだりがある。

フランスから来たヒッピーはラジャスターンのいち地方神であるバクアンを祀るお堂に入ろうとして、僧侶から断られた。
「僕は神を見たいだけだ。神はそんなに一部の人々のためだけにあるものなのか?」
フランス人ヒッピーがそう言うと、僧侶は、
「この寺にあるバクアンは、この周りの住民の生活のためにあるのだ。もし君が本当に神を見たければ、どこにだって神はいる。樹にもいるし、岩にもいる。川にも山にも、道の端に転がっている路傍の石にもいる。君の目の中にいるし。君が目によって見るすべてのもののなかにいる」と言った。
幸い、そのフランス人ヒッピーの豚は血の巡りがよかったので、自分の目によって見える全部のもののなかに、ブィブィ言いながら入っていった。

僕もまた、インドを旅していたときに、このように拝観を断られたことが何度かあった。きっと、藤原新也自身も、同様に断られたことだろう。
インドには、気楽には参拝できないお寺さんが、なぜかいくつもあるのだ。インドには、気さくだけど気難しいところがある。

昨日、神呪寺のご開帳に誘っていただいてお参りしたのだけど、ご開帳されたお堂に入れるのは、案内のハガキを持つ檀家さんだけだったようだ。
もっともそれだけでも大変なにぎわいで、檀家さんの数も多ければ、こうしてご開帳に合わせて参拝される方もたくさんいらっしゃる、親しまれているお寺さんだということがよく伝わる光景だった。

にぎわいとは裏腹に、
願いごとを書く護摩木は200円、御朱印は1種類のみで300円、お守りは1種類のみの500円。
これらからは、良心的で質素で浮っついたところのなさが伝わってくる。
ご開帳の昨日こそ大変なにぎわいだったけれども、参拝客は檀家さんにかぎられており、普段は参拝する人も少なく、静けさが保たれているとのこと。

最近の神社仏閣は、騒がしい。騒がしすぎる。
神社仏閣は、むかしはもっと、静かな場所だった。
『古寺巡礼』の和辻哲郎の時代とは言わない。ほんの15年前まで、超名刹を除いて、神社仏閣はどこも静かだった。その超名刹も、にぎわいは大変なものだったとしても浮っついたところは今ほどではなかったように思う。
今はどこも、静けさを求めて早朝に参拝してみても、すでにたくさんの人がいて、にぎやかだ。
そして、ワシこそ、静けさを求めて早朝に参拝してそのにぎやかさに加担している。
なんちゅーパラドックス。

僕は藤原新也が紹介したラジャスターンのお寺のエピソードが好きだ。
神社もお堂も、もっとローカルな人たちのものではなかったのだろうかと、門外漢ながら、このエピソードに触れるたびに思い、得心する。
その場所に暮らす人たちのためのハブでありセンターでありアジールであり、コモンズではなかったのか?と、全国の神社仏閣巡りに精を出してるワシこそが、自分のことを棚に上げて、なお思う。
もちろん、神社仏閣はオープンであるべきだと思うし、いざというときのためのアジールであるべきだと思うし、宝物を地域で守るような、コモンズであるべきだと思う。
でもそれはやはり、ラジャスターンのエピソードにあるように、まずなによりもローカルのためのものだと思う。

いうまでもなく、神社仏閣はなによりも人が集まる場所だし、開かれた場所だ。
でもそれはラジャスターンのお寺のように、周りの住民の生活のためにあるのではないだろうかと、神呪寺さんが檀家さんに意を尽くされているのを見ていて、思った。

帰路、山門にて阿吽に代わって仁王立ちする増長天のドスの効いた顔に、首がすくんだ。
そういえば、最近あちこちで拝む仏さんは、お顔の角がとれて、かつてよりも優しくなっているように思う。
うん。神呪寺さんの増長天は怖かったよ。

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