ジェニファのブロンクスのアパートに数日滞在してから、マンハッタンの安宿に戻ったときには、もう、ジェニファとは終わったなと思っていた。5月だというのに気温が40度を超える日が続いていて、暑さのせいもあったのだろう、もうワクワクもドキドキもなかった。
ジェニファはときどきホテルにやって来たけど、メヒコ料理を食べに行ったり、散歩したりしただけで、一度もやらなかった。迷ったらやる、というのは僕のルールだが、このときの僕は、迷わなかった。だから、しなかった。僕の恋愛は、信号機に似ている。青ならダッシュ、黄ならダッシュ。しかし、赤は、絶対に止まってサヨナラだ。できれば、手を振る余裕がほしいと思う。
このとき、ニューヨークにもサヨナラした。ペンシュテーションのグレイハウンドの発着所から、バスに乗った。南へ、南へ。メヒコまで行くつもりでいた。ダイレクト便がないので、何度か乗り継いでいくことになる。まちをいくつを通り過ぎたら、メヒコなのだろう?
バスは順調に走った。乗りっぱなしなのに、背中や腰に痛みはなかった。
途中、メヒコで売ろうとナイキのTシャツを買った。再びバスで南下し、ロレドから、夜に国境を越えた。乗客は、僕以外はすべてメヒカーナ系ばかりだった。
朝、バスは小さなドライブインで停まった。前の夜からなにも食べていなかったので、誰よりも早く食堂に駆け込んだ。壁にはメニューが書いてあったが、僕はまだ、スペイン語が読めない(それでも僕は、メキシコではなく、ニューヨークでみんながスペイン語でそう呼んでいたように「メヒコ」と呼んでいた)。
店の男に、英語のメニューを、と、英語で頼んだが、通じない。国境を越えたばかりなのに、もう英語が通じなかった。
いろいろ喋って通じたのは、コーラだけだった。男は小さな瓶にコーラを持ってきて、栓を抜いて、テーブルにトンと置いた。僕はそれを一気に飲み干し、もう1本追加した。そして、タコス、と言ってみた。これは通じた。メヒコで初めて通じた言葉は、タコスだ。
次に僕は、ニワトリの真似をしてみた。これには自信があった。これまで旅してきた国で、こうして、食べたいものを身振りで伝えるのには慣れていたからだ。スペイン語の喋れない、国境を越えてきたばかりの東洋人の演技は受け入れられ、しばらくして僕のテーブルには、タコス、チキン、サラダ、ライスが並べられた。
腹がいっぱいになると、国境から僕の欲望を運んできたバスのドライバーに声をかけ、話をしてみた。しかし、いろいろ話しかけてみたのだが、さっぱり分からない。グッドラックと言って、彼はバスに乗り込み、エンジンをかけた。それを合図に、乗客がバスに戻りはじめた。空は青く、雲はなかった。眩しくて、まともに目を開けることが出来なかった。
サボテンの荒野を、1本のアスファルトが真っ直ぐに伸びている。右はアメリカ、左はメヒコ。アメリカを眺め、やはりジェニファを思った。彼女は、今日も地下鉄に乗り、大学に行き、バイトをして、たぶん、もう僕からの手紙を待ってはいない。左のほうには、過去がなく、思い出もなかった。真っ白い世界に、1本のハイウェイが伸びている。
バスは、真っ白い世界へと走り出した。明日は、今日とおなじではない。おなじ日など、ない。新しい1日だけがはじまる。
そしてバスは、10分後にパンクした。明日はこんなことがありませんようにと、僕はメヒコの神に日本語で祈った。
* * *
僕にとってのメヒコといえば、ジェニファだ。永遠のロマンだ。
マヤもアステカもテオティワカンも、太古からロマンに溢れてる。
火山の噴火や地震や干ばつなどの厳しい自然環境のなか、人々は神を信仰し、畏怖し、生贄を捧げ、戦い、王と王妃の墓や大神殿や三大ピラミッドなどの文明を代表する壮大なモニュメントを築いた。
ロマンいっぱいの展示だったぜ☆ ロマンって、こういうことだ。
https://mexico2023.exhibit.jp/
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