











以前、つひまぶで災害史の特集をした際、鯰絵について調べ倒したことがあった。
鯰絵はかわら版の一種で、前回の南海トラフ大地震である江戸後期の安政大地震(1854年12月23日)の直後に、それを伝える媒体として大量につくられた。
(ナマズを地震の元凶とみなすストーリーは、1847年(弘化四年)に起きた善光寺地震に遡るらしい)
そのほとんどは、幕府の許可を得ない違法出版で、作者も版元も記されていない。当時、風刺や時節の話題を盛り込んだ出版物は検閲され、出版を禁止されていた。本来、正規の出版物は奉行所の検閲を受け、検閲印を押されのち、絵師や彫り師、版元の名が刻まれる。
印がいっこもない鯰絵は、いわば、幕末のアングラ出版物ですな。
当初は、ナマズは地震を起こした元凶として糾弾され、処罰された。懲らしめ、罰を与えるのは鹿島神だ。
要石で鹿島神に押さえつけられるだけでなく、挙げ句の果てに、蒲焼にされて、みんなに振る舞われてしまったりしており、ちょっとかわいそうなのもある(笑)
地震は、鹿島神宮にある要石に押さえられていたナマズが、神々が出雲に出かけているあいだに暴れ出したことによるものとされているので、鯰絵には要石と鹿島神がセットで登場することが多い。
鹿島神宮には今でもちゃんと要石が祀られている。
初期の鯰絵は、地震除けのお守りとしての需要もあったことだろう。お札みたいなもんだ。
その後、鯰絵の主題は思わぬ方向に変容していく。
地震の元凶とされていたナマズは、やがて、地震によって私服を肥やす商人や権力層を糾弾する方向へとシフトしていく。
地震の元凶やったはずが、地震を司る存在として神格化され、厄災だけでなく福をもたらす存在に変容していくのだ。
被災した人々を救出したり、世直しを扇動するナマズさえ描かれることになる。そこらになると、当然のように擬人化され、手足のあるナマズが描かれるようになる。
世直しナマズの頃になると、パロディや本歌取りも出現しており、それらを理解しうるバックボーンを社会が共有していたというところに、江戸時代の都市生活者の民度の高さがうかがわれる。
同時に、これらが江戸時代の地下出版、サブカルチャーとして流通していたという点が、やっぱ、魅力満点ですな。
鄧小平政権下で発禁扱いだった鄧麗君(テレサ・テン)のカセットテープを人々が争って手に入れたように、日本の大衆文化が禁止されていた90年代までの韓国で若者が日本歌謡曲を躍起になって手に入れようとしていたように、江戸時代後期の鯰絵も、人々が争って手に入れようとし、お上の目もなんのその、大人気を博した。
結果、お上は板木を差し押さえるという強硬手段に出て、鯰絵人気を収束させたとか。
コメントを残す